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2009年6月

2009.06.26

連合は民主党と縁を切れ
RENGO Should Break with DPJ

 前の記事で、連合は民主党に片思いを続け、貢ぎ続けるなにかのような存在だと書いた。

(前の記事;連合は今回の選挙でどこにゆくのか?民主党、それとも?」)

 連合は徹底的に民主党から無視され続けているにもかかわらず、表向きの看板の元に、あるいは看板とは関係なくても「ぐるみ選挙」を黙認することで、相変わらず傘下組合員の票を貢ぎ続けるための悪質なマシンと化しているのだ。

 最近、追い討ちをかけるような報道があった。

 民主党が、あの橋下徹大阪府知事(などのグループ)に擦り寄っているというのである。

 (グループについては次の記事参照。よくもまあ、こういった**な方々を集めたものだと感心する。類は友を呼ぶ、ってやつだろうか? 毎日.jp「クローズアップ2009:衆院選へ人気知事詣で 自民なりふり構わず」
http://mainichi.jp/select/seiji/news/20090626ddm003010138000c.html
)

橋下氏は24日夜、都内で横浜市の中田宏市長らと会談し、衆院選に向けて地方分権を進めるため、約20人で首長グループを結成することを確認した。松山市の中村時広市長らも加わる予定で、道州制の導入を視野に、各党の地方分権に関するマニフェスト(政権公約)を評価する考え。東国原氏も25日、「橋下知事とは意思疎通ができている」と語った。

 本論に戻ろう。

 たとえば読売新聞のサイトではこうだ。「民主・鳩山代表、橋下知事らとの連携に意欲」http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20090625-OYT1T00775.htm

 民主党の鳩山由紀夫代表は25日午後、衆院選で支持政党を打ち出すとしている橋下徹大阪府知事らの動きについて、静岡市内で記者団に「橋下知事らが求めているのが地方主権、地域主権ということなら、(支持すべきは)明らかに民主党だ。自民党はえせ地方分権、中央集権的地方分権だ」と述べた。

 しかし、現時点では「橋下徹大阪府知事ら」が全体としてどのような方針を打ち出そうとしているのは明らかではない。したがって、鳩山氏の発言も条件付きになっているということは考えられるが、それでも、まだ方針がわからない前から(さほど方針が異ならないとして)支持をお願いしている印象は免れないし、まちがいなく、実際にそうだ。

 連合は、私有セクターと公有セクターの労組双方の上部組織として存在するナショナルセンターだ。一方で、意見が一致しなければ動かないとの方針があり、ゆえに、たとえば橋下大阪府知事への対応も全くできなかったとされる。
 このことは前の記事で取り上げた要宏輝氏の「連合よ、正しく強かれ」(『現代の理論』09春、p.148)にある。そこでは、橋下知事の種々の行動に対して、次のように書かれている。

 連合大阪は抗議・激励行動を一切取り組んでいない。府労連や自治労の要請に対して連合大阪の三役会議でまとまらず、これも「(ほよっ注;連合加盟のすべてのものが)一致しない」から取り組まないことになってしまった。」この笑えない、というか「笑っちゃう」事態をなんとすべきか。

 これほど無力な組織、連合が協力する政党、民主党は橋下氏などに擦り寄っているわけである。

 それに、これも前の記事で指摘したが、そんなに無力な組織にもかかわらず、審議会などには労働団体の代表として登場し、お飾りの役目を果たした。それであってみれば役目を辞退し、全労連にでも任せるべきだ。

 さらに、民主党は、あの渡辺喜美センセにも擦り寄っているのだそうな。(このブログでも彼については結構書いた)
 再び、毎日.jpの記事から引用しよう。

 鳩山氏は24日夜、菅直人代表代行と共に渡辺元行革担当相、江田憲司衆院議員(いずれも無所属)と東京都内で会食した。25日には都内の個人事務所で平沼赳夫元経済産業相や、新党大地の鈴木代表と相次いで会った。
 鳩山氏は狙いについて「選挙において、政権交代に向けて協力しようという方々と懇談している」と明かし、「彼らは自民党の補完勢力にはならない」と語る。

 いやいや、あの渡辺センセとですか。はあーーー。まあ、民主党の主張する、「規制緩和・民営化・小さな政府」にはぴったりですな。(ついでに彼がやってきたことを考えるなら、売K?K?、という言葉を付け加えても全く問題ないでしょうな)しかし、その路線からの転換を連合はまさに求めていたのだが。

 最後に、読売の記事に戻ろう。 

 (橋下徹氏について)菅代表代行も記者会見で、「(民主党と)同じような考え方を持っていただいているのかなという期待がある」と語った。

 橋下氏と民主党が同じ考え方。大いにありそうなことだ。連合は幻想を捨てるべき時に来ている。少なくとも、橋下氏らにならって、「マニフェストを評価」するぐらいのことはしたらどうか。

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2009.06.24

破綻が証明されたネオリベ経済学者は言い訳として半可通で「ベルリンの壁崩壊」を持ち出すな
Broken Neo Liberal Economist Should not make a Excuse, Because of Berlin's Wall Break

 以前の記事でとりあげたが、あるアイドル経済学者は、ベルリンの壁崩壊前にブランデンブルク門で東から西を見ると「自由」が見えたのであるという。

 残念ながら、私はいまだかつて(そこには数限りなく行っているが)そこで「自由」というものを見たことがないので、それがどういう形であるだとか、どういう色をしているかわからない。UFOのようなものだろうか。(「東独市民があこがれた(?)西側の百貨店はいまいずこ」http://mrknomousou.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/where-is-a-west.html)

 その経済学者の彼(なにやら、彼に従えばお部屋などが超スッキリするらしい、とはいえ、彼は経済学者の中ではかなり正気を保っている方だし、尊敬に値する研究をしている)に限らず、ネオリベ経済学者、すなわちミスターKは、その主張してきた内容が、頭の体操に留まるならまだよかったかもしれないが、現実社会に適用された後では国民の屍累々といったことに対して、(素直に現実を直視することは、彼ら「繊細なエリート」には耐え難いせいか)なかなか自分自身の間違いは認めたがらない。まあ、これは多くの人がそうかもしれないが、学者としてはどうか。ちやほやされている経済学の多くの学説は、言ってみればルイセンコ説のようなものだ。で、その間違いを認めない根拠として挙げられているのが「ベルリンの壁崩壊」なのである。(こうした方々の中には「転向者」?中谷巌氏に対してそこはかとない中傷をする者すらいるほどだ;まあ、それについては・・・ごにょ)

 すぐ後で繰り返すが彼らのロジックはこうだ。ネオリベラル=アメリカ市場原理主義・資本万能主義でなければ共産主義=ソ連・スターリン型社会主義・反市場主義という実際には存在しない対立図式を描き出し、後者はそもそも壁の崩壊で否定されているから、何があっても、前者が正しいのだということだ。アホくさすぎるとしかいいようがない。

 この手の話は経済誌(東洋経済など)を読むとよく出くわす。壁崩壊は、合衆国流の極端な金融資本主義はよくないが、目指す方向は間違っていなかったとか、橋本流・小泉流改革は間違っていないなどといった主張を「裏付ける」ものなのだ(といっても、これら「改革」は「壁崩壊」の後だが)。

 彼らに言わせればこういうことだ。彼らが信奉する市場原理主義は(あるいは、彼らは「市場原理主義」という言葉は好まず、「市場への信頼」だとか「市場の優れた機能・パフォーマンス」などといった言葉を好むが、同じことだ)、いくつかまずいことがあるにせよ、市場でなければ計画だ、そして計画経済=「社会主義経済」はベルリンの壁崩壊で「間違いが証明」されているのだという。だから、どんなにまずいことになっていても、自説は正しい、という妙な背理法なのだ。

 こうした単純でわかりやすい説明は、確かにわかりやすいが、実際にはその具体的な内実を検討していないがゆえにほとんど意味をなさない

 以下で、彼らセレブ・ネオリベ経済学者のプロパガンダを打ち砕く。それは簡単で、事実を突きつければよいだけだ。

 前半で現在のベルリンの政治意識分布調査(世論調査)を紹介し、後半でそもそも論を展開する。

 ベルリンの地元公共放送はrbb(アール・べー・べー)という。結構複雑な歴史があるが、現在はベルリン市、ブランデンブルク州に対して放送を行っている、ARD(第一放送)に属する地域放送局である。決して「社会主義」のプロパガンダ放送局ではない。ありえるとしても、むしろ、正反対だ(わかっている人から見れば、今のような但し書きはお笑いだろうが)。

 ここが発表している最新のベルリン州にたいする世論調査を紹介しよう(2009.4)。元はrbbのデータだか、著作権に配慮し、作り直してある。データなどは不変。rbbのベルリンニュースであるabendschauのサイトの情報http://www.rbb-online.de/abendschau/bildergalerie/berlintrend_april.htmlから、上部右の「weiter」を押してゆくと見ることができる。

 Berlinall

 SPDは「社会民主党」であり、ヨーロッパでよくある社会民主主義政党だ。日本で言えば、やはり社民党だろう。Linkeは「左翼党、ディー・リンケ」であり、社民主義よりはより左派に振れた政党である。ドイツの場合、左翼党は、ひとつのルーツがかつての東独の支配政党である社会主義統一党SEDとその後継政党PDSである。ここまでが広い意味では左翼「リベラル」(ドイツではリベラル、というのはむしろ後述するFDPを指す)である。PDSも、当然ながら(かつてのようなソ連タイプのものではなく)路線変更を迫られたからだ。
 Grueneは「緑の党」。ないし、それに対応した東ドイツの政党の連合体。
 残りのFDPとCDUが保守政党だ。CDU/CSUは冠として「キリスト教」を持っているが、強力な保守政党である。戦後ドイツはかなりの間、彼らが政権の少なくとも一翼を担っていたし、現在のCDU/SPD連立政権のより重要な要素である。FDPは、日本的な感覚で言うと、よりリバタリアン的な性格を持っている。ドイツ政治においてはキャスティング・ボードを握ることが多かった。

 ということで、ベルリン全市を見てみると、保守側は1/3しかない。(アメリカ的意味で)リベラル勢力(SPD, Linke)の方がそこそこ大きいことがわかるだろう。
 ちなみに、Sonstigeというのは、「そのほか」。ここで、大雑把に言えば左右が分かれる。

 次に東西ベルリンごとに見てみよう。

Nishiberlin

 西ベルリンではやはり保守勢力が強いが、それでも緑の党を含めるならば、やはり社民/リベラル勢力が強いことに変わりはない。(円の大きさがグラフごとに違うのは私のミスだ、申し訳ない)

Higasiberlin

 東ベルリンではもっと強烈だ。SPDと左翼党で50%を上回っている。前回調査では左翼党が第一政党である。保守勢力は4分の1未満でしかない。

 そして、現在のベルリン市は、(当たり前だが)SPDと左翼党の連立政権なのである。日本で言えば、社民党と共産党の連立政権のようなものである。

 日本の経済学者が妄想しているように、壁が取り払われてからはネオリベ政党の一党独裁や二大政党独裁(日本においては自民党、あるいは民主党、あるいは彼らの連立政権)になったのでは全くない。つまり、壁が取り払われたからといって、全ての東ベルリン市民が資本主義・市場原理主義万々歳、になった、とはとてもいえない。

 なぜそうなのか、というのは長くなるので稿を改めて述べよう。しかし、このことは故なきことではなく、むしろ当然のことなのだ。

 このように、壁崩壊20年後の現実が、ネオリベ経済学万歳、となってないことはデータで明らかになるが、そもそも当時の状況を考えれば、それはもっと明らかなのである。

 なぜならば、壁崩壊のあたり、1980年代末尾というのは、当時の西ドイツでネオリベ政策満開というわけではなかったからである(日本では、中曽根首相に始まるネオリベ政策になっていた)。むしろ、社会民主主義的イデオロギーを標榜する政権・あるいはそれを修正することを主張する政権がずっと続いたということがバックにあった。当時の保守政権は、膨らみすぎた社会保障などを削るということを打ち出してはいたが、決して日本のように一気に国家の任務は警察・国防に限るといった極端論に走ったわけではなかったのである。非常に図式的に言えば、東独市民はケインズ政策には殺到しても、まだそれほど看板が高く掲げられていなかったネオリベ政策には、飛びつこうにも、それがどこにあるのか、見ようにも見えない状況だったのだ。

 したがって、壁崩壊の当時、仮に東独市民が西側の素晴らしい経済パフォーマンスにあこがれたとしても、それは市場原理主義としてのネオリベ経済学の成果に対してではない。現在の経済学者の一部=ミスターKたち、が主張している内容とは全く異なる。

 歴史を自らのイデオロギーに合わせて捏造することは、将来に禍根をもたらすものである。

 我々は彼らの目くらましにだまされることなく、まずは歴史と現実をよく知ることだ。

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2009.06.23

次の自民党総裁選候補者を占う
Predict the Candidates of Next LDP President

 衆議院総選挙前に麻生太郎元総裁を「とりかえる」のか否か、例によって政局がらみの話でやかましいようだ。そんなことをしているヒマがあったら、もっと伝えるべき事柄がありそうなものだが、それはともかく話を続けよう。

 まず、総裁選はある。後から見て、なかったとしたらむしろ驚きだ。

 なぜなら、そのようなメディア・イベントを自作自演することでマスメディアをジャックし、もって「国民の皆様」に自民党の関係者の方々に対する「親しみ」をもってもらい、一方では他の党が何を主張しているかとか、どんな人物がいるかをわからなくさせる、というものが近年の伝統的な自民党の選挙対策であり、それに嬉々としてのっかって政治を自民党人間ドラマ的エンターテインメントに仕立ててきたのがマスコミだからである。

 ということは、すでに麻生氏をおろすことは規定路線になっており、いまのところ、おろすか、おろさないか、という「手に汗握る」スペクタクル・ショーを見せたいのだ、と思ったほうがよい。東京都議選があるから、まだいつ総裁選を行うのか正確に決まっていないという事情もあるだろう。

 時期について言えば、(国会の会期にかかわらず)必ずしも東京都議選後に総裁選があるとは限らない。総裁選は別に公式の選挙でもなんでもないから、都議選の選挙期間中にやってもよいのだ。そうすれば、自民党にとって、むしろ都議選における絶好の宣伝ともなる。

 こうした、「メディア仕掛けの政治」を把握していれば、ここ数ヶ月自民党がメディアに露出させようとしてきた政治家が、実質次の総裁選挙の「顔」になると思って間違いない。政権存続の危機がかかるときに、もはや派閥でもない。

 主に3人であり、あとは、その他の中堅・若手だろう。
 舛添要一氏、鳩山邦夫氏、与謝野馨氏である。彼らが今までマス・メディアに徹底的に露出させられてきたことは誰の目にも明らかだ。

 桝添氏といえばインフルエンザの空騒ぎがすぐに思い起こされるが、他にもたとえば、昨日(6月22日)にも、「ハンセン病患者・元患者の名誉を回復、追悼する式典が22日、国の主催で初めて開催され」「舛添要一厚生労働相は・・・とあいさつした」(NIKKEI NET http://www.nikkei.co.jp/news/shakai/20090623AT1G2203C22062009.html)と伝えられ、当然ながらNHKでも桝添氏の演説が映し出されるといった次第だ。なぜ、いま開催されるのか、とか、入所者の声が伝えられるのはともかく桝添氏の演説がなぜ延々流されるのか、といった疑問をもった人もいるだろう。

 さらに、常に注目される産経新聞社とFNNの合同世論調査でも、桝添氏が候補となっており、高い評価だ(iza http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/politics/politicsit/269287/)。

 鳩山氏を出すのは効果的だ。自民党があたかも自由と民主主義を尊重する政党であり、自ら変わる能力をいまだ抱えているかのような幻想を振りまくにはうってつけである。もちろん、疑惑をはっきりさせる必要があるが。

 与謝野氏は実力派として担ぎだされるだろう。実際に総裁になる可能性もある。しかし問題は、総裁は首相になってしまう可能性があることだ。そうなると、自民党にはもうほとんど実務をこなすことのできる人材はいなくなるので、困ったことになる。もし、そうなった場合は、総裁と総理は分離されるだろう。

 その他、中堅の人物として菅義偉氏が候補だろう。彼のようなゴリゴリのネオ・リベラリストは、同じネオリベ仲間であるマスコミの記者の一部には大変受けがよいようなのだ。菅氏なら、彼らのバックアップを全面的に受けられること請け合いだ。(後は、あるとして例によって小池百合子氏とか石原伸晃氏とかいった常連だろう)

 では、(そのほか若手を含めて)誰が自民党総裁になるのが自民党にとってよいのだろうか。

 実は誰でもよいのである。「とりかえ」そのものは第二義的な意味を持つに過ぎない。とにかくマスコミをジャックし、(上の繰り返しになるが)少しでも顔を売ること、親近感を持ってもらうこと、主張を単純化し繰り返すこと、他の政党の存在を消すこと、ができれば十分なのだ。いまや、商業放送には、選挙の事前運動に相当するものは報道しない、との倫理(民放連放送倫理基準第2章(12))はあってなきがごとしだ。もちろん、NHKもそうだ。

 民主党は、それに比べるとノホホンとしたものだ。多くの人が指摘したように、対国民・対マスコミという意味で代表選挙は全くなっていなかった。
 どうも、「総裁が変わったところで国民はだまされない」などといった趣旨のことを頻繁に党首脳が発言しているようだが、そんなところにも、第二自民党であることに慣れきった、日本の現実を厳しく正面から見ることのできない民主党の体質が透けて見えるようだ。

追記(2009.6.26)スキャンダルで与謝野氏の線は薄くなった可能性がありますね。そういった話はことの軽重にかかわらず、イメージ選挙としては不利でしょう。

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2009.06.22

民主党などが2009年度補正予算による巨額の国民負担を減らすことは可能だ
DPJ Can Reduce the Incredible Burden of Revised Budget in Fiscal Year 2009

 以前の記事で書いたように、すでに景気底打ちしたとされる時点(2009年4月以前)のあとで、異例の2009年度補正予算が通過してしまった(2009年5月末)。

(前の記事;「15兆円補正予算成立の半月後に景気底入れ宣言、ふざけるな!」)

 完全な政策ミスだが、規模も巨大だ。ほぼ14兆円。乳児からお年寄りまで、日本人全てで平均して一人当たり10万円強の負担である。4人家族で40万円強。まあ、返ってくる部分もないわけではないが、全体からすればわずかだ。この途方もない Too Early, Too Big な政策で恐ろしいほどの負担を一般の国民は負わされたわけだ。

 では、この予算案はすでの通ってしまったのだから、もうどうしようもないのだろうか

 実は、そんなことはない。全て取り返しがつく、というわけではないが、かなりの部分、国民負担を軽減できる可能性がある。

 そのためには、民主党を中心とした政権に交代することがまず必要である。自民・公明では100%無理だ

 簡単に言えば、政権をとるということは内閣(行政)運営を任されるということだから、それ以降の一切の2009年度補正予算にかかわる事業を内閣のイニシアティブで停止すればよいのだ。これは実行可能である。それどころか、前の政権が決めたことを粛々と行うのであれば、一体なんのための政権交代なのか不明だということを強調しておこう。

 ただ、ひょっとするともしかして、政権が変わったにもかかわらず同様の事業を強行しようという官僚(と業界)が出てくるかもしれない。それを抑えるには次のようにすればよい。

 まず、事業を停止させる(しなくても、腰だめで可能だ)。次に、停止した時期までに費消してしまった予算額を官僚に申告させる。これをB円としよう。補正予算でその事業にA円の予算がつけられていたとすると、新しい補正予算としてA-B円の金額を減少させる金額からなる第二次補正予算を新たに通せばよいのだ。

 補正予算は、必ず何かに使うために増額されるものからなるとは限らない。通常は、何かに予算をつけるものが多いから、そう思われているだけだ。減額も可能なのである。実際に税収などで減額されることはよくあることだ。予算書では「追加額」「修正減少額」の差額として「差引額」がある(財務省のサイトから見ることができる)。だから、次の補正予算として「修正減少額」に数字がずらずらっと並ぶものを提出し、成立させればよいのだ。

 例で説明する。2009年度補正予算では総務省の管轄で「ユビキタスネットワーク整備費」として、補正予算で156,292,266,000円、日本語で言えば1563億円といった巨額の費用が認められている。仮に、事業停止までに200億円すでに支出してしまったとすると、第二次補正予算の「修正減少額」として136,292,266,000円をあげればよいのだ(予算書は、もっと細かい費目にも分かれているけれども)。そうすれば、官僚がいかにその事業をやりたがったとしても、あるいは業界・企業がやりたがったとしても、カネがないのですることはできない。

 ただ、一部、別の組織に付け替えてしまったものは返却させることが困難かもしれない。

 このようなことをして大丈夫か、という考えもありうるが、いくつか問題は発生するだろうが、基本的には問題ない。なぜなら、2009年度の国の事業費は原則として本予算(通常予算)でまかなわれることになっているからだ。変更されてしまった政省令があれば、元に戻せばよい。

 参議院はすでに民主党などの支配下にあるから、予算案を通すのは簡単だ。官僚が、費消した金額を申告する期間も含め、次の国会が開会されて2週間もあれば、予算案を提出できるだろう。

 とにかく、早くすることが肝心だ。予算案はともかく、事業の執行を早急に停止させることだ。もうすでに、どんどん支出され、従ってわれわれの将来の借金返済額もどんどん増え続けているのだ。急いでも、数兆円は消えてしまっている可能性もある。

 金持ちのドラ息子気分の政権が「人気取り」としていかにとんでもないことをしでかすか、という極めて悪質な例ではあるが、民主党などなら、ドラ息子の尻拭いをある程度できる可能性もあるだろう。

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2009.06.21

連合は今回の選挙でどこにゆくのか?民主党、それとも?
Where RENGO Goes at This National Election? DPJ or?

 日本がこれだけ劣化してしまったのには、むろん、多くの個人や団体の「貢献」がある。その「貢献」でもトップクラスを誇るのが「連合」である。

 その、連合は、今後の衆議院選挙(と東京都都議選)でまたもや民主党に協力をするのだという。

 連合の力を考えたとき、連合に「集結した」単産あるいは個別の組合にどれだけ、あるいは個々の組合員にどれだけ影響力を及ぼせるかは不明なので、思うほど重大なことではないのかもしれない。企業ぐるみとか組合ぐるみとかいった投票行動は少なくなっているのかもしれないが、どうだろうか。

 それはともかく、連合にこのようなこと(民主党との協力)を言ってもらうのは日本のためにはよくないことだ

 それは、なぜか。以下で説明しよう。

 幸いに、『現代の理論』09年春号に3つの記事が掲載されているので、それが参考になる。
 ひとつは、笹森清氏(前連合会長)に小林良暢氏(グローバル総研所長)がインタビューしたもの。あと二つは、要宏輝氏(元連合大阪副会長)と田端博邦氏(元東大社会科学研究所教授)の論文である。

 笹森氏のインタヴューを読むと、この組織(連合)が生まれる前からすっかり自民党に取り込まれていることが(笹森氏の意図はともかく)よくわかる。それはおいておき、重要な点は次のようなものだ。引用しよう。 

笹森:(細川政権や、自・社・さ政権で連合の政権関与がある程度あるが、その程度の差について)その時に連合の掲げる政策の実現度合いはどうだったか、というと変わらないんです。逆に言うと要求を自制するのですよ。

―(小林)自制するというのは?

笹森:われわれの作った政権じゃないかと言って、だからあれも呑め、これも呑めとはやらない。ここが日本の労働組合の素晴らしいところだと思う。だから、連合が応援する民主党は労働組合の言いなりになっている、という批判をうけるけれども、現実にはそうではないんです。 

 ひょっとすると日本経団連(と在日米商工会議所)が自民党に対して「あれも呑め、これも呑め」といっていることと対比して言っているのかもしれないが、民主党を見て、「労働組合の言いなり」とはほとんど全くいえないだろう
 それよりむしろ、経団連が自民党と民主党の「採点表」を公表し、「民主党はまだまだ」と言われたときに、「クーン」と軽く鳴いて、尻尾を振って経団連に擦り寄っていったことが記憶に新しい

 今度の選挙で民主党中心の政権になるとして、連合がいかに「われわれの作った政権じゃないかと」思ったとしても、民主党が連合側の「意思」(そんなものがあるとして)をわずかながらでも尊重することはないだろう。その理由は下に述べるが、軽んじられていることをもって民主党が連合の「言いなりになって」いない、とは物の言いようである。

 連合と民主党とが根本的に方向性が異なるというのは次のことで明確だ。要論文に、「2009連合白書」にあらわされた連合の方向性が記載されている。引用しよう。 

(1)市場原理主義的価値観から「社会的公正と連帯を重視する価値観」への転換
(2)ストックホルダーカンパニー(株主主権企業)論からステークホルダーカンパニー(広く社会性を持った企業)論への転換
(3)「規制緩和・民営化・小さな政府」路線の転換 

 簡単に言えば、社会民主主義/リベラル路線である。
 しかし民主党の現実を見ると、(2)はともかく、(1)は今の民主党国会議員は熱狂的に市場原理主義に憑かれたネオ・リベラリストだらけであることが明らかだ。とりわけ松下政経塾出身者をはじめとして。(3)に至ってはなにをかいわんやで、「規制緩和・民営化・小さな政府」路線こそ、まさに民主党と自民党が競うようにその実現を追い求めているものなのである。

 この違いは、ちょっとしたなにかの違い、といったものではなく、根本的なものだ。 

 本気でこれらを実現しようというのなら、民主党を変えるか(これは、人をほぼ全とりかえしないと困難だ)、あるいは連合が共産党か社民党を支持するしかない。

 『現代の理論』の1インタヴューと2論文を読むと、いかに連合という組織が無力なものであるか改めて思い知らされる。それゆえ、実際には個別の組合は往々にしてほとんど「カイシャ」の手先のような役割を果たしており、まちがっても上の社会民主主義的ないし(せいぜい)米国で言うところのリベラルな路線をとりようがないということと、ナショナルセンターレベルではそうした方向を打ち出すといった明確な矛盾を抱え込んでも平気なのだろう。

 従って、現在、連合が民主党との協力、を言うにしても、傘下の組合レベルでそうだから、ということを代弁しているに違いない。物事を好意的にとれば。彼らの社会民主主義/リベラル嫌いは笹森インタヴューでも、要論文でも書かれている。(イデオロギーが嫌いなのではなく、単に党派性でそう言っているに過ぎないかもしれないが)

 しかし、この「協力」は、実際にはその矛盾に目をつぶっているに過ぎない。連合の方針が民主党にまじめに扱われていないことから逃げているのだ。本来であれば、協力するのであれば強く民主党に対して影響力を発揮すべきだし、民主党がどうにもならないのなら、やはり、支持する政党を変更すべきなのである。そういうそぶりすら見せないので、連合は民主党になめられたままなのだ。少しは日本経団連を見習うべきだろう。

 この間、数々の審議会にも「連合」は「労働者の代表」然として参加してきたが、ほとんど何の役割も果たせていなかった。それどころか、現在のように不安定雇用が爆発的に増えることを側面から応援してしまった感さえある。連合は、現在のようなムキダシのネオ・リベラル資本主義のイチジクの葉の役割をやめなければならない。

 惰性で保守勢力におもねりつづけるのはそろそろ卒業すべきだ。

 ちなみに、上の要論文は、連合の無力な現状の理解と、その目指すべき方向について大いに参考になる。

(この記事の後の関連記事;「連合は民主党と縁を切れ」http://mrknomousou.cocolog-nifty.com/blog/2009/06/rengo-should-br.html

)

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2009.06.18

15兆円補正予算成立の半月後に景気底入れ宣言、ふざけるな!
In less than a Month 15 Trilion Yen Revised Budget approved, Goverment announced Bussiness Bottom Out

 2009.6.16に政府は月例経済報告によって、「景気」が「底打ち」したと判断した、とマスコミによって報じられた。

 本記事では、その妥当性について論評し、そのあと、「100年に一度の危機」として煽られた空気の中で連発されてきた「経済対策」そのほかについて論じる。

 月例経済報告関係の文書はhttp://www5.cao.go.jp/keizai3/getsurei.htmlで見ることができる。

 長いので例によって目次。

1) 月例経済報告の判断の妥当性について
2) 経済の認識と経済政策の妥当性について
3) 今回の景気回復について

1) 月例経済報告の判断の妥当性について
 5月報告では「景気は、厳しい状況にあるものの、このところ悪化のテンポが緩やかになっている」との基調判断が6月では「景気は、厳しい状況にあるものの、一部に持ち直しの動きがみられる。」となっている。表現から見れば、「底打ち」とマスコミが伝えてもおかしくない表現である。

 本格的には2002年(平成14年)3月に、前月の「景気は、悪化を続けている」から「景気は、依然厳しい状況にあるが、一部に下げ止まりの兆しがみられる」に変更した以来のものだろう。いや、表現としては、むしろもっと「上向き」ですらある。ちなみに、例によって多くの国民にとって実感はないものではあったが、2002年の頭あたりから、実際に長期の景気上昇期に入ったとされている。

 それと比べてどうか。今回、輸出がそこそこめどが立ったこと、在庫調整が終わり、生産が多少上向いたこと、公共投資が堅く行われていることの3点が上昇ポイントだ。多くの論者が指摘するが、輸出回復は大きい。これについては後述する。

 しかし一方で、消費、設備投資、住宅投資は芳しくない状況が続いているとされている。どころか、前月より悪化した表現だ。これでは本格的な景気回復は望むべくもない。「報告」では、消費が上向いている証拠、というのがいくつか提示されているが、しかし一方で、雇用者の所得は減少を続けていることが示されている。所得が減少し続ける状況で、消費が増加し続けることはできない。高齢者層の影響を別にすれば、それは貯蓄を減少させて、あるいは借金によって消費を増やしていることを意味しているからである。本格的に消費が増加するためには、雇用が増加するか、賃金が上昇するかするか少なくともどちらかが必要だが、どちらもないのである。

 したがって、「景気底打ち」は極めてあやうい土台の上にある。

 では、政府の判断が妥当でないかというと、そうでもないだろう。実際のところ、多くのエコノミストは(私も含めてだが)景気後退期にも「明るい」業界があることはわかっていたし、おそらくは2009年夏ごろには一息つくだろうと判断していたはずだ。

 そのような状況で、一定の「よい」数字が出てきたならば、政治的判断も含めて「底打ち宣言」をするのもありえるだろう

2) 経済の認識と経済政策の妥当性について
 昨年来、「100年に一度の危機」として危機が煽りに煽られたのは記憶に新しいところである。ところが、1年もたたないうちに「底打ち宣言」。これはいったい何を意味するのであろうか。

 まず、そもそも今回の危機を「100年に一度の危機」などと無批判にとらえることからして、おかしかった。このことでは、私は昨年中に一つの記事を書いている。「「百年に一度の危機」?」2008.12.26付けhttp://mrknomousou.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/once-in-a-centu.html

 要するに、今回の「危機」を「100年に一度」などと平板に捉えてもしょうがなく、今回の「危機」をそのものとして捉え、対処する必要がある、まして「100年に一度」という言葉を「超法規的措置」「戒厳令」を許容する免罪符として使ってはならないという指摘だった。

 しかし、まさに事態はその通りになったのであり、 今年に入ってから2回も補正予算が成立させられるという有様である。特に、2009年度の補正予算(驚くべきものだ)には批判が強かった。

 この異例かつ異様な15兆円もの補正予算が通って(2009.5.29)半月ほどして「景気底入れ宣言」である。いったい、なんなのか。

 かんぐって言えば、補正予算が通るまでは、「底入れ宣言」を延ばしたのかもしれない。

 注意しなければならないのは、6月の底入れ宣言は、6月に底入れしたというわけではなく、大体4月までの数字を見て、そのあたりで底入れがあったかどうかを判定したものなのだ。
 5月の段階でも、いくつかの「明るい数字」はあったわけだ。6月は、そのうち一部はよりよくなり、一部はより悪くなったにすぎない。今、喧伝される、底打ちは2月-3月ではなかったか、という評価は、すでに5月の段階であった可能性は十分にある。 

 つまり、景気対策としての2009年度補正予算を出す前に、景気は底を打っていた(あるいはそれを知っていた)可能性もあるのだ。

 正しい評価に基づかなければ、正しい経済政策の打ちようもない。聞くところでは、総額15兆円というのがGDPの3%からはじめに割り当てられており、その総額で大盤振る舞いをしたのだという。
 選挙目当てとはいえ、いやはや。やるなら自分のポケットマネーでやるべきだ。(あるいは、前回自民党・公明党に投票した人たちが金を出してくれ)

ちなみに、この補正予算を指して、Too Early, Too Big と評してもよいだろう。

3) 今回の景気回復について
 一番の牽引車が中国の経済成長であることは間違いない。というより、それがあるので、まともなエコノミストはそのうちに経済が回復していくことを確信していたのであり、間違っても「政府紙幣発行」という「経済政策が日本を救う」などと見当はずれのことは言わなかったのである。

 いまだに、一部の経済学者が中国の経済が内需部分と外需部分にかなり分離されていると信じているのは奇妙なことだ。今回は、そのようなことはすでにかなり薄まっている、ということの例証になったろう。なぜなら、欧米の輸入はまだ回復していないからだ。ちなみに、中国の輸出入もさほどふるってはいない。

 ただ、中国クラスの国が、年率7-10%程度の成長をしている、ということはかなり強烈なことなのだ。かつて、中国のGDPが総額で低かった頃の同率とは、その拡大の絶対量が全く異なる。そのうちに中国も低成長になるだろうが、少なくともそれまでは、波はあっても、かなりの中国からの需要を日本は見込むことができるだろう。

 しかし、この類の外需頼み経済からは、早く脱出しなければならない。

 小泉に代表される新自由主義政策というのは、日本の場合は、端的に言えば、輸出産業の「競争力」をできるだけ上げるというものだった。何を犠牲にしても。犠牲の中には、多くの日本人の生活も含まれた。日本人の生活、というのは、彼ら(自分たちだけでエリートと認め合っている人たち)にとっては、あえて言えば、コストに過ぎないのだ。

 ここは、将来の日本の経済社会がどうあるべきか、ということを論じるものではないのでこれ以上は述べないが、外需をアヘンとするのではなく、それがあるうちに、日本を-よく言われる言葉で言えば-持続可能なものに作り変える必要があるのだ。

 そのためには、もうそんなに時間はない。時間を空費したともいえる。中国の成長は、日本の現在の「輸出」にとっては望ましいが、将来の「輸入」にとって深刻な影響をもたらすことは、あまりにも明白だからである。

この記事の続報記事、「民主党などが2009年度補正予算による巨額の国民負担を減らすことは可能だ

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2009.06.16

渋谷、宮下公園ナイキ化計画 真の問題は何か
Rename Miyashita Park in Shibuya to Nike Park, What is the True matter?

 2009.6.16に、TBSの夕方バラエティ番組をつけっぱなしにしていると、宮下公園ナイキ化計画と、それにまつわる騒動が取り上げられている映像が流れてきた。

 公園のナイキ化というと、ウィーン(カールスプラッツ, Wien Karlsplatz)でかつてあった出来事(これは、パフォーマンス)が思い出されるところであり、日本でも「イルコモンズのふた」のサイトで紹介されている(http://illcomm.exblog.jp/8496053/)。従って、わたしもどうなることかと考えていた。

 この問題を、2つに分けて論じたいと思う。一つは、公園の利用ということであり、もう一つは、ナイキ(Nike)や役所の思考パターンなどの問題である。

1. 公園の利用問題
 宮下公園は、かなりの部分がホームレスの方々によってその土地が利用されており、「一般の」人たちの利用が妨げられていることは明らかだが、かといって、では、ホームレスの人たちの生活をどうするのかという問題もある。

 この問題については、さまざまな考え方がありうるが、私はかなり原理主義的に考えている。

命題A) 公園は、その全域にわたって一般の人に利用されるものでなければならない
命題B) ホームレスの人たちの生活は、確保されなければならない

 これら2つの命題は、それほど不審には思われないと思う。いかに実現するかである。

 端的にいえば、経済と法律の問題である。
 まず、公園といった公共スペースを長期間占拠することをより明確に違法化する必要がある。基準としては、同じ場所に2晩を超える、がボーダーラインだろう。単なる旅行者などが公園で野宿する権利を奪ってはならない。日本国にいるからには、固定的な住居を確保するのは当たり前である。このあたりが法的にぐだぐだになっている状況は、改善されなければならない。(普段、個人の自由を重視する言説をしていることからすれば、意外に思うかもしれないが、ある部分では、特定の自由を制限することによってしか、より広い自由は得られない)
 もちろん、法で律するだけでは、ある人がAという場所からBという場所に移動するだけである。したがって、彼らに最低限の住居を提供する必要がある。そのための土地が東京にはある
 どこか。
 「東京テレポート」とされる埋立地である。ここであれば、(まだ)さほど住民もいないので、一種の(冷たい語感だが)「収容所」としては極めて優れた土地だ。他の都市にない利点である。バスまたは有蓋貨物車を定時運行し、「島」と「内陸」を連絡するのがよいだろう(好きなときに移動して、内陸で好きなように活動してもらう)。もちろん、バスなどのドライバーには割増しの給料を払う必要がある。さらに、あえていうなら、東京には他にも土地がある。しかも、(あえてどことは言わないが)都心だ。
 長期的には、彼らホームレスには長期的な就業をしてもらう必要がある。これは、マクロ・ミクロ両面での政策の課題だ。
 こうした、全体的な経済対策を、小手先の対策(要するにホームレス排除)と混同してはならない。クマが襲いかかっているときに、目をつぶればクマがいなくなるわけではないのだ。

 とにかく、今「公園」というのが素晴らしい響きを持つ言葉ではなく、「迷惑施設」の一つであるかのような扱いは異常である。なんとか正常化しなければならない。基本的にはある一つの政策に二つ以上の効果を求めてはならない。公園からホームレスの方々を排除しただけでヨシ、というのは極めて幼稚な発想である。

2. ナイキ(など)の問題/役所の思考パターン
 区役所の担当者が、「ナイキ」という名前を聞いて、すぐに口元に冷たい笑みが浮かんだかどうか知りたいところだ。ウィーンでの出来事を聞いていたら、「宮下公園」を「ナイキなんとか」にするということは、世界的に見れば笑いものになるだけだ、ということがわかっていただろう。ナイキという会社の評判を考えれば、そうなるのが、まあ、当然だ。私が役人なら、口の端がゆがんだところだ。

 しかし、ことは渋谷区に限らない。どうも、役所の役人には、自分のところの区民よりは、区民による法人、区民による法人よりは、もっと別のところの(大きい)法人、という、なんだかわけのわからない優先順位が観察されるのだ。
 つまり、私が個人として私の区役所に何かを訴えるよりも、私が、私が率いている会社の社長として訴える方が役所には訴求力があり、そして、私がその区にある会社の社長として訴えるよりは、その区以外に本社がある、全国的な、あるいは世界的な企業のエージェントが訴える方が、役人には受け入れやすいらしいのである。

 典型的には、各地で起こっているマンション等の建築問題でこの「法則」が見られる。

 地方自治体の役人は、基本的にはその自治体の住民に奉仕することが(ま、憲法にはそう書いてないけれど)自明である、と考える立場からすれば、全くわけのわからないことだが、これが実態であることは間違いない。その結果、「外部の企業」の「受け入れ」に汲々とする自治体は後を絶たない。

 確かに、このような状況であってみれば、地方税を払うのもばかばかしくなってくるというものだ。しかし、そういったニヒリズムに浸りきる前に、やはり、行政のあらゆるレベルの民主化の実行、そして、それによる税金の正常な活用ということのみが、今後の日本を正常化するのだ、ということを強調しておこう。

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2009.06.14

議員定数半減という危険なポピュリズム「政策」を打ち出す国民新党ら
Dangerous Populist Policy that halves the number of the Diet Members, Proposed by PNP and their Friends

 自民党と民主党が衆議院議員比例代表定数部分の削減で悪辣さを競っている中、国民新党というNHK好みの政党もその下の下を競うレースに新たに参戦したらしい。

 NHKオンラインによると、「衆参両院の国会議員の数を半分程度に減らし、衆議院は比例代表を廃止して選挙区のみとする」(http://www3.nhk.or.jp/news/k10013608221000.html#)らしい。
 時事オンラインでは、次のようだ。(http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2009061300204)

行財政改革では「政治が身を削る姿勢を示す」とし、衆院議員定数480のうち、比例代表を全廃するなどして197に削減。参院定数242も99に削減する案を盛り込んだ。ただ、党内では別の定数半減案もあり、最終調整している。

 こうした、人気取り的政策の名の元に、これら議員によって、自分たちに有利なように選挙制度を変更しようというのだから悪質だ。

 たぶん、多くの国民は議員が一人でも減ると、払わなければならない税金が結構減るとか、自民党や民主党の多数を占める(立法という本職に関しては)無能な議員が一掃されるとでも思っていると考えられているのだろう。税金うんぬんは完全な錯覚だが。また、奇妙なことに比例代表制よりも小選挙区制のほうがよいという、はっきり言ってデマとしか言いようのない宣伝も継続的に行われているので、比例代表を減らすという途方もなくナンセンスなアイディアも国民には受け入れられるのだろう。

 保守の方々(自民・民主など)の考えそうなことである。

 比例代表について、全く奇妙かつ素朴な「反感」(たぶん、だれかによって作られたものだろう)のひとつはこうだ。小選挙区で落ちた候補が比例代表で復活するのはおかしい、というものだ。

 これは、選挙というのは誰かを選ぶものであって、誰かを落とすものではない(これは、最高裁判事の国民審査などについてはそうだ)ということを全く知らないか、意図して無視している考え方だ。あるところで「落ちた」候補が別に当選することは別に不思議でもなんでもない。

 もし、そういう考え方なら、定数2以上の(国政選挙に限らなくてよいが)選挙区というのはなくなる。あえていえば、「1位」以外は「落とした」と考えてもよいからだ。

 こんな幼稚な発想は、いったいどういう大人ができるのだろうか。

 小選挙区制度があまり民意を反映しないものであることは別にここで改めていうまでもないほど明確なことだ(典型的には死票)。私には、小選挙区制というのは、計算するのが困難であった時代の遺物にしか見えない。私は国政選挙は大半は比例代表制で選ぶのが妥当だと考えている。特に非拘束名簿式比例代表制が望ましい。

 現在、選挙をめぐる数々の問題は、小選挙区制という制度の問題に帰着している。代議士の当選・落選がきわめて危うい基盤に乗るので、どうしてもさまざまな問題が発生するのだ。
 比例代表制で政党、すなわちイデオロギーを選ぶ方式では、仮にある代議士が落選したとしても政党の活動は続けるであろうから、安定したイデオロギー競争(すなわち政策競争だが)を望むことができる。

 ところが、日本人の多くが、イデオロギー(政策)ではなく、人格を選ぶのだ、という奇妙な妄想からいまだに抜けていないように見受けられる。しかし政党は「人格」についても、比例代表制であっても、支持を得ようと思ったならば、それなりの候補者名簿を用意するはずである。

 たぶん、自民党・民主党など保守勢力は、公平な政策の競争となると勝てないことが感覚的にわかっているので、インチキな選挙制度の変更を画策しているのだろう。

 選挙制度はともかく、国会が何をするためにあるところかを思い出してみよう。基本的には立法を行うところである。今の国会(171常会)にどれだけの法案が上程されているかご存知だろうか。衆議院提出が76本、参議院提出が35本、内閣提出が86本の合計197本である。これを(会期延長がないとすると)150日の日程で「さば」かなければならないのだ。それに予算などの審議も加わる。
 普通に考えれば、委員会制度があるにせよ、これは大変なことだ。まともに議論しているとかなり時間がかかることが明らかだし、言い換えると短い時間では議論を尽くすのが難しいだろう。だから、本来は該博で明晰な人間(議員)によるきちんとした多面的なチェックが必要なのだ。議員定数を半減させるなどもってのほかである。

 今は衆議院議員の2/3以上の人間たちが、「与党」に属しており、彼らはほとんどまじめに議論に参加する必要もないし、ましてや議案を精査しようという気もないだろう。一部の「野党」所属議員もそうだ。したがって、この間とんでもない法律がどんどん通ってしまった。

 このような状況は正常化されなければならないが、ほかでもない、この国会(衆議院)を現在構成しているメンバーが彼ら好みの選挙制度に変えようとしているのである。

 ちなみに日本の衆議院の現在の定数は480(小選挙区300、比例代表180)である。諸外国の下院に目を向けると、合州国が435であることを別とすると、独仏は大体600、英国は650程度である(ちなみに、韓国は一院制の約300人であり、ずっと少ない)。つまり、現在でも日本の下院メンバーは多いとはいえない。

 国民新党の、感情に訴える式の議論では、衆議院定数は240になる(197らしいが)。これで、どうやって内閣(要するに、多くは、「官僚」)が出してくる法律をきちんと検討できるのか。行政府ではなく、議会で立法しようというのが流れではなかったのか。途方もないことをいい出す方々がいるものだ。

 選挙制度に話を戻すと、一旦小選挙区の比率を大きくしたら、二度と比例代表の比率を大きくするように、すなわちきちんと民意を反映するような選挙制度にすることは困難だろう。なぜなら、制度を決める彼らはその制度で選ばれるからである。郵政民営化もそうだったが、こういう、後戻りできない類のものは、極めて慎重に考えなければならない。

 もし、議員定数が削減されたとして、いいことは一つもないのだろうか。いや、そんなことはないだろう。現在、本来の仕事はほとんど全くしていない議員の方々が、思いつきで作った法律を「議員立法」として通そうとすることがよくある。これらが減って、たぶん法制局の職員はほっとするだろう。

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2009.06.10

カールシュタット、トーマスクック、アルカンドーア
Karstadt, Thomas Cook, Arcandor

(グローバル30を検索されて、ここにこられた方は、右の「おしらせ」をご覧ください。検索が妙なことになっています)

前の記事「東独市民があこがれた(?)西側の百貨店はいまいずこ」のとりあえず続報。(ちなみに、この「前の記事」はこれまでの経緯を書いたもの)

 カールシュタット(KarStadt)、トマスクック(Thomas Cook)などを持つ会社、アルカンドーア(Arcandorアルカンドール、独、つまり親会社)がいよいよ、ということになった(破産/倒産申請)ようだ。記事に間違いがあるとき、責任は一切取れないので各自内容はご確認いただきたい。

 国に緊急支援を求めていたが、それが連邦政府によって断られ、アルカンドーア側から新しい支援要請を出すことはない、というもの。(南ドイツ新聞)
http://www.sueddeutsche.de/,tt2m1/wirtschaft/29/471567/text/

 認められなかった主な理由は、経営状況の悪化が2008年8月の金融/経済危機以前に始まっているということだ。そこがオペルと違う、ということなのだろう。
(ドイツ第一テレビARD)
http://www.tagesschau.de/wirtschaft/arcandor216.html

 アルカンドーアは、トマスクックの株を52%保有している。トマスクック(もちろん、英国起源の旅行会社、ヨーロッパ時刻表などで日本でもおなじみだろう)は利益を上げているので関係ないという。旅行会社ネッカーマンなどもトマスクックグループだ。
(トマスクックのサイトに表明がある)
http://www5.thomascook.info/tck/index.jsp

(ドイツ第一テレビARD)
http://www.tagesschau.de/wirtschaft/arcandor172.html

もちろんカールシュタットの従業員などは何とかしてほしい、と意思表示をしているが・・・
南ドイツ新聞によれば、カウフホフ(Kaufhof, 親会社メトロMerto)とカールシュタットの統合話は進むだろうとのこと。

旧西ベルリン地区住民が「百貨店でのお買い物」をするために旧東地区のカウフホフまで出かけるということには、さすがに、ならない、だろう?

前の背景解説記事「東独市民があこがれた(?)西側の百貨店はいまいずこ」

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2009.06.07

マスクを15分つけるだけで効く?アサヒ・コムの不思議な「新型インフルエンザ 「よく効く知識」」の元情報を検証する
Inspection on Asahi Com's Strange Swine Flu Commentary

 ちょっと遅いが、豚(新型)インフルエンザに関するマスク騒動を取り上げる。

 対象とするのは、アサヒ・コムで取り上げられているマスク有用説の根拠となった、ユニ・チャームが、関西医科大学医学部耳鼻咽喉科の久保伸夫准教授と「いがらしクリニック」五十嵐利一院長と共同で行った「マスクには対インフルエンザで効果がある」とする研究である。
 この研究はかなり奇妙である。いままでも疑問は呈されている可能性があるが、以下にはっきりさせておく。

 最初に結論をいっておくと、この研究は「1日15分マスクをつけるだけで、インフルエンザ感染の危険をかなり減らせる」という、なにか健康機器の宣伝文句を思わせるような結果であり、到底まともなものとして受け取ることはできない

長いので、構造化しておく。面倒なら、3)、5)、6)のみ読んでもよいだろう。

1) 私の立場
2) ライナ・マッキンタィアー博士(オーストラリア、ニュー・サウス・ウェールズ大学)によって率いられたチームの論文について
3) 朝日新聞、アサヒ・コムのサイト、日経メディカルのサイト、ユニ・チャームのサイト
4) 有意性の検討
5) 実験計画
6) この発表への疑問
7) 付録;日経メディカルとユニ・チャームのサイトのデータの相違について

1) 私の立場
 通常時、マスクをしたい人はすればよい、私は気持ち悪いし、面倒だし、金もかかるのでしたくない、というのがまず前提だ。そして、一般的なインフルエンザ蔓延時には、インフルエンザ患者のいることがある程度確実な空間では、使用がよりありうるし、推奨されるだろう。そして、脅威がかなり重大な場合には、かつ、有効性が確保されるならば、場所によってはほぼ着用強制に近い形でもよいとは思っている。したがって一律にマスク着用を排除するものではない。ただし、今回の騒ぎは明らかに私の基準からすればほとんど無意味だった。もっと重要な感染を防御する手段からむしろ目をそらす役割すら果たしたのではないかと思う

2) ライナ・マッキンタィアー博士(オーストラリア、ニュー・サウス・ウェールズ大学)によって率いられたチームの論文について
 これは、家庭において、子供がインフルエンザ様病気(ILI)にかかった場合、その家族がマスクをすること()の効果を検証したものである。(興味のない人は、3)に飛んでください)

'Face Mask Use and Control of Respiratory Virus Transmission in Households'
C. Raina MacIntyre,corresponding author Simon Cauchemez, Dominic E. Dwyer, Holly Seale, Pamela Cheung, Gary Browne, Michael Fasher, James Wood, Zhanhai Gao, Robert Booy, and Neil Ferguson
Emerg Infect Dis. 2009 February; 15(2): 233–241.

「家庭におけるフェイスマスクの使用と空気感染するウィルスの伝染のコントロール」

 以下のサイト(合州国NHIのPubMed Central)で読むことができる。

http://www.pubmedcentral.nih.gov/articlerender.fcgi?artid=2662657#SD1

 この論文は、()のような状態での効果を検証したものであり、マスクの効果について肯定的に結論付けている。ただし、効果は大まかに言って二面的に分析されており、単に家庭内での感染者の割合といったことでは効果はあるとはいえない。コックスの比例ハザードモデルという手法を使うと、マスクの効果が見られるというものだ。なお、()の設定ではサージカル・マスクとP2マスク(N95マスクと同等らしい、オーストラリアで認定)でさほど効果に差は認められない。

 その他の知見も種々述べられている。著者らによる解説を次のページで見ることができる。上は豚インフルエンザと絡めたもの。ただし、4月30日付であることに注意。(それぞれオーストラリア、英国)

http://www.unsw.edu.au/news/pad/articles/2009/apr/Swine.html

http://www3.imperial.ac.uk/newsandeventspggrp/imperialcollege/newssummary/news_26-1-2009-14-53-41?newsid=55374

 ところで、調べている途中で、「ばかげたフェイスマスクは、嗤うものではない、と研究でわかった」

http://medgadget.com/archives/2009/01/silly_facemasks_nothing_to_laugh_at_study_finds.html

 との記事があった。もちろん、かぜも引いていないのに元気にマスクをつけて、物笑いの種になっているのはわれらが日本人である。まあ、そういう見方もあるだろう。

3) 朝日新聞、アサヒ・コムのサイト、日経メディカルのサイト、ユニ・チャームのサイト
 アサヒ・コムを開くと、割と上のほうに「新型インフルエンザ 「よく効く知識」」というコーナーがある。その中に、「学校では鼻ガード」という記事がある。次のサイト。2009年6月3日付である。

http://www.asahi.com/health/pandemicflu/OSK200906030001.html

 簡単に言えば、学校ではマスクをしましょうといった記事なのだが、研究内容はよくわからないので、ネットをうろつくと、この「詳しい」バージョンが発見される。「日経メディカル オンライン」の「【学会トピックス】マスクに一定のインフルエンザ予防効果を確認」というものだ。

http://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/all/special/flu2007/pickup/200801/505340.html

 内容はこのようなもの

試験期間は2007年2月5日~3月2日。この間、装用グループには、登下校時と清掃時にマスクを装着してもらった。授業に集中したいという理由から、授業中は対象外とした。
(中略)
 マスク装用グループの発症率は1.9%だったのに対し、非装用グループでは10.8%となり、装用グループの方が有意にインフルエンザ発症率が低いという結果だった(p<0.05、図1)。

 図は次のようなものである。著作権に配慮し、作り直したものを貼り付ける。

Nikkeimed_2

 同じような内容がユニ・チャームのサイトにもある。2007年11月1日付けニュースリリースで「ユニ・チャーム、関西医科大学と共同研究 マスクで子どものインフルエンザ発症率を5分の1に低減できることを実証~第39回日本小児感染症学会(2007年11月)にて発表予定~」というものだ。なんとも勇ましく、「子どものインフルエンザ発症率を5分の1に低減できる」らしい。

http://www.unicharm.co.jp/company/news/2007/07nov-1.html

 関西大学の久保先生の意見もなかなか勇ましいものだ。

今回の研究成果から、学校保健の立場からも、より多くの子どもたちにマスクを装用することを指導することを推奨します。登下校や清掃時のみならず、休憩時間や在宅時にも、マスクの装用を心がけてほしいと思います。

 となっている。ユニ・チャームが見れば(見ただろうけど)随喜の涙をもって喜びそうなコメントである。日経メディカルでは五十嵐先生がもっとずっと慎重なコメントを寄せている。

4) 有意性の検討
 さて、実験計画も、データも明らかになっているので、われわれはこの研究について検討することができる。

 まず、統計的有意性から再検討すると(つまり、私が自分で計算しなおしたということ)、これはかなり明らかだ。有意水準を1%にしても、つまり判断基準を厳しくしても、マスクの効果は統計的には揺るがない。むしろ、印象的すぎるほどだ。

 この2つの標本の差は、何らかの違いがあってもたらされたものだと判断して間違いない。

5) 実験計画
 印象的な結果をおいておき、次に、実験計画についてみてみよう。彼らの実験は、上の2)でとりあげた論文の精密さ(それでも困難があるが)に比べれば、表に出てきている内容では全く及ぶものではない。はっきり言えば、お話にならない。まあ、発表そのものを観ていないのでなんともいえない部分もあるが・・・

 いくつも問題があるのだが、もっとも大きな問題は、「マスクをつけたグループ」というのが、そのつけている時間が「登下校時と清掃時」に限られているということだ。小学校だから、全部あわせても、普通は1日せいぜい1時間だろう。(日経メディカルによると「授業に集中したいという理由から、授業中は対象外とした。」ということになっている)つまり、もし、彼らの主張をそのまま聞けば、

「1日1時間このマスクをつけるだけでインフルエンザの感染を5分の1にできる」

 ということになるのである。

 念のために言っておけば、5分の1というのは標本からの推定値だ。基本的にその言明は検定では言えない。ただ、数パーセント、インフルエンザ感染の危険を減らすということは検定でいえる(ユニ・チャームデータで、感染率の絶対値を2%低下させる効果ならなんとかいえるだろう。単純な検定で確認。3%減らすといえるかどうかはわからないが、かなり難しいだろう)。

 さらに、開放空間ではマスクの効果が疑わしいことがわかっている。そして、ユニ・チャームのサイトからは、まさに彼ら小学生が開放空間で通学していることがわかる。したがって、さらに、彼らの結論からは彼ら流に統計を使うと、強く次のように言うことができる。(15分というのが掃除の時間だとして)

「1日15分このマスクをつけるだけでインフルエンザの感染を5分の1にできる」

 そんなことがありえるだろうか。1日ほとんどマスクをつけていなくても、わずかの時間つければよいというのである。まさに、よくあるキャッチコピーのようなものではないだろうか。

6) この発表への疑問
 4)と5)は、矛盾する。ありえない。統計結果としてどれぐらいありえないかというと(5でありえなさが明らかなので)、その「1-有意水準」でありえないのだ。したがって、99%以上の確率、あるいは日経メディカルの「p<0.05」という表現を採用しても、95%の確率でありえない。
 このことから、その違いをもたらしたものはマスク以外の要因か、あるいは結果の数字の何らかの意味での操作にしか求めることはできない。あるいは、残りの1%未満、ないし5%未満の単なる偶然である。

 これ以上詮索する材料はないし、憶測になるので述べないが、この4,5,6の記述は論理的(あるいは統計的)帰結であり、筋道だてて考えれば誰でもこの結論になる。

 学会発表というと、なにやら正統性のあるもののように思うかもしれないが、必ずしもそうではない。
 そのほかにもいろいろあるが、関係者が混じっているものは要注意である。今回の場合、マスクの製造業者であるユニ・チャームの石神まこと氏が学会報告に加わっている(日経メディカル)。こういった場で、マスクの効果は認められない、という発表はしづらいだろう。

 これを無批判にとりあげたアサヒ・コムと日経メディカルの姿勢も疑問だ。

7) 付録;日経メディカルとユニ・チャームのサイトのデータの相違について
 朝日と、ユニ・チャームの2つと、日経メディカルのサイトでは、なぜかデータがやや異なる。
 前者は、標本数が151、103であり、後者は161、93である(マスク着用、非着用)。

 ただし、検定結果にさほどかわりはない。

**********

 頭を冷やし、広く世の中を見てゆこう。軍艦「橿原」の乗務員のようになるのは勘弁してほしい。

 この記事執筆の調査段階で「タカマサのきまぐれ時評2」の以下の記事がひとつのヒントとなった。お礼を申し上げたい。

「インフルエンザ予防としてのマスクの効用」
http://harana.blog21.fc2.com/blog-entry-791.html

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2009.06.05

メタボ検診についての厚生労働官僚の驚愕すべき発言
Shocking Officer's Comment on "Metabo"-Compulsory-Test

 全く驚くべき発言がこの世にはあるものだ。
 「メタボ検診(健診)」に関する厚生労働省の官僚の方の発言である。どこで見聞したかというと、ドイツの公共放送ZDF(ドイツ第二テレビ)のアウスランド・ジャーナル(Auslandsjournal、外国ジャーナル)の2009年4月22日付けの放送である。

 ひょっとすると見逃した?ZDFは、NHKのようにできるだけ見せないことをその特質としている「公共放送」ではなくて、ちゃんとした公共放送なので、そこそこの割合で見逃した番組もインターネットで見ることができる。もちろんYouTubeではなく、公式のサイトからだ。

(ちなみに、この記事は、映像を見なくても理解できるようには書いてあります)

http://www.zdf.de/ から、上の中ほどにある「ZDFmediathek」という部分をクリックすると、ZDFのメディアテークの画面が開く。右の方にある「Inhalt」とかかれた検索窓に「japan」と入力して虫眼鏡のアイコンをクリックしよう。

 2009.4.22付けの"Schlankheitszwang in Japan"(日本の強制スリム)という番組名が表示されたら、左のチェックボックスにチェックを入れ、下にある右向き三角を押せば番組を見ることができる。もしかすると、転送レートの設定を聞いてくるかもしれない(DSLとかモデムとかのことだ)。その場合、真ん中のラジオボタンにしておいた方が無難だ。(観かたがわからなかったら、コメント欄にお願いします)

 はじめは、おそらくドイツ人(レポーター)と思われる方と、全日空の職員の方がスポーツジムでのトレイニングのシーンから始まる。途中、ANAの職員の方とレポーターが実際に「メタボ検診」を受けるシーンもある。問題のシーンは5分経過したあたりだ。

 そこでは、まず厚生労働省のはいっている建物が映され、"YOKOYAMA GEN"という人の発言が捉えられ、そのドイツ語翻訳のナレーションがかぶさる。日本語はところどころ聞こえるが、ナレーションの音が大きいために、全体を通しては聞こえない。

 ドイツ語から日本語にかなり直訳調に「逆翻訳」すると、こうなる。 

日本では、以前から、国や企業がかなり強力に、人々の健康の面倒を見る、ということが慣例になっている。
それゆえ、われわれは、強制検診
(ドイツ語でのZwangstest、ドイツ語ではいわゆるメタボ検診のことをこう呼んだ)がプライヴェートな領域への侵犯のように感じられているとは、一度も誰からも聞いていない。

 最後のところは、吹き替えが終わっているので、「いう声は、日本では聞かれておりません」とはっきり日本語で聞こえる。やはりおそらく、大概上のようなことが言われたのだろう。少なくとも、二つ目の文については信憑性が高い。すぐに直感するのは、国外のメディアに対してだからといって、このような(あえていえば)デタラメを言うのはいかがなものか、ということだ。

 ちなみに、この放送を元にしたとしか考えられない記事がネットにある。ただしドイツ語だ。ここで独訳文を確認できる。

http://www.20min.ch/news/dossier/japanbizarr/story/10650938

 ・・・というわけで、YOKOYAMA GENさんをそれらしく調べてみると、確かにそれらしい方がいらっしゃり、厚生労働省の厚生労働省保険局総務課医療費適正化対策推進室というところにお勤めだった。誰もが簡単にネットで名前はわかるだろうから、漢字で名前を出しておくと横山玄、という姓名であった。

 というわけで、電話でお話をうかがった(前にも書いたけど、先方は忙しいので、丁寧に、質問は構造化して伺いましょう)。およそ、以下のような内容である。

 ドイツの放送局の取材を受けたことを明言され、上記のような発言をされたことも明言された。その文脈は、ヨーロッパで同じようなこと(メタボ検診のようなこと)があると、私的領域に踏み込むという反応(もっとありていにいえば反発だろう)が予想されるが、というZDFの質問に対して、上記のような回答をしたものだという。

 また、取材時点で彼の知っている情報を元に正確に話したか、という私の問いに、きっぱりと肯定的に答えた。つまり、虚偽を言ったり、事実を曲げて語っていないという言明である。

 断っておくが、私は昨今の官僚バッシングをあまり好まない人間である。何かと問題を官僚の天下りと結びつける「官僚陰謀論」「公務員陰謀論」のような話は、ある程度正しい部分もあるだろうが、かなり眉につばをつけて考えている。

 しかし、丁寧に回答していただいた横山氏には申しわけないが、やはり上の発言は問題ではないかと思う。

 まず、この検診が導入された時点で、「メタボリックシンドローム」の基準や利権の話を別としても、プライバシーの話であるだとか、単に率直に生理的にいやだとか、なんで太っていていけないのかとか、そんなのは個人の自由だろう、とかいった話はかなり出ていたはずだ。それを、担当の官僚が知らないということは考えにくい。元の日本語の聞き取れる部分、「いう声は、日本では聞かれておりません」ということはありえないだろう。

 もし、本当に「聞かれておりません」ならば、厚生労働省というところ、あるいはそこに勤める人はよほど偏った情報に接しているということになる。

 あるいは、聞いたが、無視して忘れたか、ほとんどそういう声はないと決め込んだか?

 ありえる話としては、やはり、外国の放送局だからということで、日本ではこの政策が受け入れられているのだ、ということを担当者としては少々事実を曲げてでも説明、あるいは主張したかったのだろう。日本人が視聴することは想定されていない。もし、日本の放送局がこれをそのまま流したら、かなり視聴者の反発があったのは間違いないだろう。(想像してみてほしい、NHKなどで上の発言が担当官僚のものとしてそのまま流れたとしたらどうなるかを、ま、マスコミは流さないだろうけどね)

 しかし、横山氏のこういう反応は、日本人の私からすれば、事実を曲げて国外に伝えていることに他ならないし、もし、横山氏が本当に上のような認識をもっているならば、その認識違いは、職務を考えるならばかなりの問題だ。

 この番組のドイツでの典型的な受け止められ方としては、おそらく、とんでもないことが行われているなあ、日本では(そもそも番組に出てくるおそらくドイツ人だと思われる方は、ドイツの基準でいえば、特に太っているほうではない)しかも、日本人はその政策に文句をいわずに嬉々として従っているように見える、これはいったい?というものだろう。横山氏のインタビュー前までで。(上の、文章サイトも、JAPANBIZARR、つまり、日本の変なもの、という所のものだ、ただ、反日とかいうのとは全く違う)

 本当は、ここで、この政策には日本人(の一部)も反対しているのだ、あるいは不満を持っているのだ、と正直に語った方がよかったのである。もし、官庁の掟で正直に語れないなら、それもまた問題だ。どうみても、秘密というほどのものでもない。

 そうでなくても、画一的で皆が同じように考え・行動する奇妙な国として有名な日本である(実際、まさにこの弊がインフルエンザ・マスク空騒ぎであらわれ、そして世界にまた報じられてしまったのだが)。正直に言ったほうが、まだ日本にも、こんな奇妙でかつ個人の領域に明らかに踏み込む強制的な政策にきちんと反対する人がいるのだ、と好感を持ってとらえられただろう(そういう意味では、ZDFのレポーターは、一般の声を聞いてもよかっただろう)

 実際にはその逆で、こんなへんてこな政策にも、ひとりの日本人も文句を言わない、少なくとも担当官僚の耳まで届かないほどの日本人しかいないという報道は、ドイツ人にとってはそのステレオタイプをより強固に上書きするものにしかならないのだ。

 私自身はこの検診は憲法違反だと評価している。できるだけ早く廃止すべきだ。メタボ検診の廃止は、国会の課題のひとつだろう。

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2009.06.04

奥泉光『神器 軍艦「橿原」殺人事件』
Okuizumi, Hikaru "Shinki: Gunkan "KASHIHARA" Satsujin-jiken"

 表題の奥泉光氏の『神器 軍艦「橿原」殺人事件』(2009)、新潮社、についてである。

 単純に、面白かったし、日本語の持つ表現能力のすばらしさを(もちろん作者あってのことだけど)再認識した。
 強い印象を残したのは、奥泉氏の構想力と構成力である。

 私自身は文芸評論をする器ではないし、ネタバレになるようなことを書くつもりもないので、たくさん書くことはないが、さまざまな読み方をできる作品だとは感じる。

 ただ、たぶん、読んだ多くの人が思ったとは思うが、下巻の「最後」というのが物理的に明らかになるにつれ(要するにあと数ページというのが明らかになるにつれ)まだ語られていないことがたくさんあるのではないか?との疑念を持った。作者が語りつくせた、というのならそれで構わないかもしれないが、もし出版社との関係でこうなったのであれば残念だ。

 愚にもつかない、非常に低レベルな感想を書いておくと、登場してくる「はちまき」は、昨今のマスク騒ぎを思わせるものでもあった。

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