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2009年5月

2009.05.31

『感情は経済で動く はじめての行動経済学』のよくない「全訳」
Terrible "Complete Translation" of "Economia Emotiva"

 マッテオ・モッテルリーニ『感情は経済で動く はじめての行動経済学』(2008)泉典子訳、紀伊國屋書店(原著2006)、の翻訳についてである。
 この「全訳」(訳者あとがきにある記述)には首を傾げざるを得ない。もっと率直に言うと、このような「全訳」は許されないだろう。

 奇妙な「教訓」なるものがついているが、これは元の書籍にもあったものなのだろうか。原著はイタリア語なので確かめようがないが・・・
 それに、イタリア人の著者がやたらと日本の事情に詳しい(?)のも気になる。もしかすると、第二のパオロ・マッツァリーノ氏であるとか?カバーの著者紹介を見ると、どうも、イタリア人であるということに確証が持てるのだが。しかも、ミラノに住んでいるらしい。
 妙にジャパナイズしたものを「全訳」などと称さないでいただきたい。わかりづらい部分には脚注をつければよいだろう。『神曲』の主人公の名前が「山下」であればわかりやすいのだろうか。

 とりわけ腹立たしいのは、どう考えても内容が書き換えられているとしか思えない部分があることだ。pp.90-93の内容は、もし本当にこれを大学教授が書いてしまったのならば、かなり恥ずかしいものだろう。

 ここからは書籍を読んだ人でないとわからない話だ。ご容赦いただきたい。

 効用関数としてU()が定義されている。たとえば、4000円の効用関数はU(4000)という実数値だ。この関数は、線形関数(ここではありていに言えば正比例の関数)でもありうるが、通常そうでなくてもよいとされている。線形関数だけでなく、もっと広い関数を認めなければ、実はあまり意味がないのだ。
 それはおいておき、訳者が効用関数の計算と、期待値の計算を混同しているために、ここでの記述はほとんど全く意味を成さない。後で出てくるが、0.2U(4000)=U(800)、0.4U(1600)=U(640)などとしているが、これは関数U()が線形(かつU(0)=0、これはそう想定してもよいだろうが)でないとそうならない。これは、高校までに習う期待値計算からの類推だろう。
 このようなことをまともな経済学者がするはずがない。

 文句をつけても限りがあるので、私がかわってここの内容(訳の記述ではなく)を解説しよう。

1) 2つの選択肢(A, B)がある

A 4000円がもらえる確率が20%か、何ももらえないか
B 1600円がもらえる確率が40%か、何ももらえないか

Aの期待効用 0.2U(4000)
Bの期待効用 0.4U(1600)

 で、多くの人はAを選ぶのだとしている。このことから多くの人にとって次の式が成り立つ。

0.2U(4000)>0.4U(1600) (式1)

2) 次に、また別の選択肢(A', B')がある

A' 4000円がもらえる確率が50%か、何ももらえないか
B' 1600円が確実にもらえる

A'の期待効用 0.5U(4000)
B'の期待効用 U(1600)

 で、このときには、B'を選ぶ人が多いとしているのだ。したがって、多くの人にとって次の式が成り立つ。

0.5U(4000)<U(1600) (式2)

3) (1)式と(2)式を見比べてみよう。ただし、このままでは比較がややしづらいから、(1)式を0.4で割るとこうなる。(補足をしておくと、数0.2と0.4を数0.4で割るだけだ、関数Uには関係ない)

0.5U(4000)>U(1600) (式1')

 式2と式1'は矛盾する。したがって、少なくとも一定の人間は、効用理論から見る限り、「非合理」な選択をしているのだ、という結論が導かれる。

 これらの式の展開の中で、「0.2U(4000)=U(800)」などといった無茶な展開は一切必要ないのだ。

 ついでに書いておくと、p.268の「10枚トータルの損益」(これは期待値だろう)もどうしてこうなるのか。10枚中の報酬カードと罰カードの比率が考慮されていないので、高校生でも間違いがわかるような妙な計算になっている。正しくは、Aから、$-750、$-350、$0、$200になるはずだ。

 もっとも問題なのは、こうした文を読むということは、「本当に著者が書いたのか?」という問いを絶えず抱きながらでないとできないということだ。また(この本についてそうする人はいないと思うが)、この書籍からの引用もほとんど不可能だろう。なぜなら、誰が書いたかわからないからだ。もしかしたら、著者が容認したのかもしれないが、モッテルリーニ氏の著作権にかかわる問題でもある。

 このような書籍を読んでいることがわかってしまうので、この記事を書くことにはためらいがあったが、紀伊國屋書店のような書店がこのような体裁の書籍を出版するということに危惧を抱かざるを得ないので、あえて書いた。

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2009.05.30

東独市民があこがれた(?)西側の百貨店はいまいずこ
Where is a Western Deparment Store now, Once Charmed East Germany Citizens

 今、ドイツの百貨店業界は大変な転換期にさしかかっている。(なお、以下の記事は今まで書いた中でも大変ややこしいので注意、面倒なら「」(←ここをクリック)まで飛んでください)

 われわれは、公式見解で、旧東独市民は西側の豊かな生活に憧れ、その情念が旧計画経済ブロックの崩壊の一因になったと聞かされている。そして、それはそれほど間違いでもないだろう。(一部の日本の変な経済学者は、いまだに、当時ブランデンブルク門で東から西を見て、「自由が見えた」などといっているわけだが。妄想を持たない人には、壁か、ジーゲスゾイレか、ティーァガルテンの森しか見えなかっただろう)

 ところが、その「西側の豊かな生活」の象徴とされた、豊富に商品の並ぶ百貨店―これが、いまや大きな転換期を迎えているのだ。

 その内容というと、やはり「経営統合」「廃業」である。日本の百貨店業界(伊勢丹、三越、高島屋、松坂屋、大丸などなど)とその点では変わらないのだが、もっとはるかにドラスティックである。

 まず、おさらいをしておくと、ベルリンに限ってみると、最近までベルリンには「百貨店」と呼べる存在として「屋号」ではカールシュタット(Karstadt)、ヘルティー(Hertie)、カウフホフ(Kaufhof)、ウールワース(woolworth)、ヴェルトハイム(Wertheim)の5つがあった。このうち、ウールワースは小型の百貨店である。

 ウールワースは、いわずと知れた合州国起源の会社である。合州国における、あの圧倒的なウールワース・ビルを想起される人もいるだろう。(たとえば、http://www.nyc-architecture.com/SCC/SCC019.htm) 合州国ではすでにだいぶ前に百貨店としてのウールワースは消滅し、やや前に、英国ウールワースも倒産した。ただ、その時には、ドイツのウールワースとは資本関係が異なるのでドイツは安泰だ、とされていた。
 しかし、昨年末、ベルリン・シュテークリッツの(シュロスシュトラーセの)ウールワース取り壊し(この物件は投資会社に販売された?)に伴い、そのファサードが道路に倒壊するという椿事があった。こういったことはなにかの引き金になるのだろうか?
 ドイツのウールワースも4月半ばに手元資金の枯渇から倒産してしまったのである。やや小型の百貨店ながら、比較的良質の製品を安価で提供していただけに残念でならない(もっとも、woolworthは、そのほかの企業と比べ、まだ前途があるとされる)。ただ、商品陳列に問題があったせいか(そこそこの割合のドイツの商店はそうだ)、日本人にはあまり良品安価と考えられないかもしれない。

 時間は前後するが、ヴェルトハイムについて取り上げよう。この会社は、すでにカールシュタットによって買収されていた。ベルリンに残る最後のヴェルトハイム(やはりシュロスシュトラーセ)も、2009年3月をもって閉店した。その隣に、カールシュタット本体が建設されており、閉店したヴェルトハイムは「ブールバール・ベルリン」という大型ショッピングセンターにかわる予定だった。

 ということで、すでにカールシュタットの一部になっていたヴェルトハイムも、その屋号すら消滅してしまったのである。

 そして、ヘルティー。これも、一時期カールシュタット(ちなみに、現在、カールシュタットを持つ会社がアルカンドール(Arcandor)である)傘下に入っていたが、その後、別の投資会社に売却されていた。そして、その投資会社はやや前にヘルティーを廃業し、不動産を売却するなどして資産回収をする意向を明らかにしていた。そして、5月半ばごろ、最終的にヘルティーの前途は絶たれた

 ちなみに、「ヘルティー」という名前は相当の歴史(三越のように長い歴史というわけではないが)をもつものである。あのカーデーヴェーにもかかわった

 カーデーヴェー(KaDeWe)については上にあげなかったが(単館だし)、いうまでもなくベルリン・ヴィッテンベルガープラッツ(Wittenbergerplatz)にある超巨大百貨店である。(公式サイトhttp://www.kadewe.de/)圧倒されるのは、上の階にある食料品売り場である。日本人の観光客もよく訪れるところだ。
 1989年あたりの「変化の時」あたりには、この百貨店にはわんさと東独市民が押し寄せたとされた。もっとも、現実に品物が買われていたのはアルディ(Aldi)、プルス(Plus)のような安売り店であったとの報告もあるが・・・ちなみに、この報告は、こうした百貨店のその後の展開を予感するものであったかもしれない。

 KaDeWeにとっての、woolworthのファサードの倒壊事件にあたるものは、2009年1月に発生したドロボウ事件かもしれない。宝飾コーナーがターゲットになったこの事件は、直後に「犯人」(?)が逮捕されたにもかかわらず、証拠不十分でその後、彼らは釈放された。
 しかし、このカーデーヴェーも、とっくにカールシュタットの(あるいは親会社アルカンドールの)所有下にあった

したがって、2009年5月中旬あたりで、先に言った5つの百貨店の名前、あるいはカーデーヴェーも含めて6つの百貨店は、事実上2つにしぼられていたのである。カールシュタットとカウフホフに。

 ベルリンのカウフホフは、旧西地区にはない。かつての東ベルリンの百貨店のみを買収したのだ(知る限り)。有名なのは、アレキサンダープラッツのカウフホフだろう。日本人観光客にとってアレキサンダープラッツは観光ルートのひとつだから、見物した人も多いに違いない。現在は、夜遅くまで営業している。これらは、旧ドイツの百貨店チェーン(?)セントルゥム・ヴァーレンハウス(Centrum Warenhaus)が変貌したものだ。旧東ドイツ、つまり計画経済体制では多くの小売店がよく品切れを起こしたとされるが、少なくとも、ここでは品切れ問題はあまり発生しなかったという。問題は、西側で起こった消費社会化の流れに全くついてゆけなかったことだ。このセントルム・ヴァーレンハウスは旧東独にいくつかあったが、それらのいくつかは、今まで挙げたのとは別の、昔からある百貨店チェーンであるホルテン(Horten)に起源がある。ただし、西側のホルテンは、カウフホフにすでに買収されている。

() ということで、ベルリンの百貨店状況にさらにおさらいをすると、かつてはそれなりにさまざまな種類があった百貨店が、旧東にある(西側企業の)カウフホフ((上の企業)メトロ)と、旧西にある(もちろん西側企業の)カールシュタット((上の企業)アルカンドール、アルカンドーア)の2つしかなくなってしまったのである。

 これで話は終わりではなかった。
 なんと、カールシュタットとカウフホフの統合話が持ち上がったのである。
 カールシュタットは経営が苦しいらしく、政府に資金援助を求めるありさまである(だったら、ヴェルトハイムをつぶすなと言いたいが)。米ジェネラル・モーターズ(GM)傘下の自動車メーカー、オペル(Opel)について騒ぎが起こっているが、カールシュタットが「参入」したわけだ。しかし、ドイツ国民の目は厳しい。2009.5.29のドイツ第一放送(ARD)の調査(http://www.tagesschau.de/multimedia/video/video504880_bcId-_ply-internal_res-ms256_vChoice-video504880.html)によれば、オペルに対して税金投入してもよいと答えたドイツ国民が53%(これでもややあがった数字だ)に対して、カールシュタットについては29%しかない(ほおっておくが63%)。
 政府資金の導入には条件があることと、オペルの場合には、より米国の親会社GMの経営状況に左右されているという部分が大きいとは思われるが、それにしてもカールシュタットについては厳しい。
 その救済話を別にしても、統合の話はあるようだ。

 南ドイツ新聞http://www.sueddeutsche.de/wirtschaft/355/469907/text/(2ページあり)によれば、カウフホフ(メトログループ)のシェフ、ロブロ・マンダック(Lovro Mandac)氏は、カールシュタットと統合したら多くの既存店舗が閉鎖に追い込まれるのではないかという文脈で、仮にベルリンのカールシュタットをカウフホフが運営するとなると、ベルリンで13の店舗を展開することになるが?、という南ドイツ新聞側の質問に対して、ベルリンは統合することが(店舗の)現在の立地に必ずしも影響をもたらさないよい例だ、百貨店のサービスエリアがあまり重ならないので、全ての現在の(店舗)立地が将来にも(そのまま)あるだろう、と語っている。

 それはそうかもしれない。しかし、これは、ベルリンにおける「ザトゥルン(Satrun)」と「メディアマルクト(MediaMarkt)」の「2大家電量販店」の競争のようなものではないだろうか。というのは、2つは、あたかも異なる店舗のようでありながら、実は、共にメトログループに属しているのである。したがって、消費者は、2つの店の間で選択をしているようで、実は、さほど真剣な選択にはなっていないのだ。
 日本にたとえていえば、ヨドバシカメラとさくらやが競争をしているようで、あるいは、コジマとヤマダ電器が競争をしているようで、その実資本系列は同じだった(実際にはそうではないが)、というようなものである。日本の百貨店系列も相当程度整理されたが、ここまではいっていない。

 なぜ、こんなことになってしまったのか。計画経済から資本主義経済への移行は、無条件に「選択の自由」を保障してくれるのではなかったろうか。(念のために言っておくと、私は計画経済というアイディアは原則的に好まない)
 ひとつの回答は、南ドイツ新聞の記事である。http://www.sueddeutsche.de/wirtschaft/431/465024/text/これよれば、いくつかの理由があるが、そのひとつとして、ディスカウンターや専門店の間で「粉々にされた」という理由が挙げられている。金融・経済危機はその契機にしか過ぎないというわけだ。
 出所を記録しておかなかったので、ここで提示できないのが残念だが、このことは、このところの中間階層の没落、したがって、上層と下層に消費の指向が分裂したことと関係があるとの指摘もあった。日本と同じかもしれない。

 それはそれで正しい分析だろう。ただ、追加的にひとつだけあげておく。資本主義経済下では、あるビジネスのジャンルが固定したとたん、自由競争の条件下では、限りなくひとつの企業に供給元が絞られる傾向があるのだ。とりわけ、成長が終了したとされる分野においては。それがよいとか悪いとかではなく。そうしたことを知っていれば、特にこういった極端な事例-ドイツ国内で事実上百貨店がひとつになるという-にも驚き騒ぐこともないだろう。ただ、西側に吸収されることで、ステキな消費生活を満喫でき、「選択の自由」を味わうことのできることを夢見た(?)旧東ドイツ国民についてはご愁傷様というしかないが・・・程度の差はものすごくあるだろうが、結局は百貨店として「セントルゥム・ヴァーレンハウス」しかなかった時代への逆戻りともいえる。

 ところで、カールシュタットとカウフホフが統合した後の、もうほとんどドイツ国内にそれ以外の百貨店がない百貨店グループの「上の会社」の名前の案はどうなっているのだろうか。

 Deutsche Warenhaus AG(ドイツ百貨店株式会社)という案が報じられている。

 妄想が現実に、なのかもしれない。

続報記事「カールシュタット、トーマスクック、アルカンドーア」

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2009.05.27

新国立劇場の岡田利規演出デーア・ローアー「タトゥー」について2
Toshiki Okada directs Der Loher's 'Tattoo' at New National Theater Tokyo 2

 正直言って驚かされるものがあった。
 新国立劇場で5月中旬から上演された岡田利規演出のデーア・ローアー「タトゥー」の受け止められ方についてである。
 以前朝日の劇評については述べたし、そのほか、日経の劇評等についても読んだが、これらは普通だった。したがって、ブログに現れる劇評についてである。

 (前の記事 「新国立劇場の岡田利規演出デーア・ローアー「タトゥー」について」2009.5.22)
(なお、この記事は、都合によりもともと5.26にアップしたものを修正したものです)

 それらは私が書いたような、劇評もどきではないので、ちゃんとした劇評なのだろう。いずれも、真実をついていると感じられるところも多い。たとえば、塩田装置と演出が十分にはかみ合っていないなどだ。多くは、私が「劇評もどき」で書いたことと共通するが、結論は大きく違っていたりもする。つまり、結局しょうもないものだ、とするか、価値あるものとして評価するかだ。
 もちろん私は自由主義者だから、どのような評価もあってかまわないものだと考える。
 しかしまた、自分の評価を補強したり、ここで追加的に何かを書いてもかまわないだろう。

 以下の内容;
1) 岡田「タトゥー」が世界レベルの舞台であることについて
2) 照明・観客席について
3) 新国立劇場のバックアップ体制について
4) 塩田装置について
5) 新国立劇場そのもの
6) 岡田氏の目指したもの(?)

1) 岡田「タトゥー」が世界レベルの舞台であることについて
 そのように、前の記事で書いたが、ここで「世界レベル」(ただし超一流ではない)と言っているのは、はっきり言えば、ベルリンで同じ舞台を上演したとしても優れて良くもなく、悪くもない評価を受けるだろう、という意味である。
 もちろん、これには異なる意見もありうるだろうし、全くもって私的な評価であることは明らかかもしれない。二つの論点がありうる。東京の方が、ベルリンよりも演劇レベルが高いのではないだろうか、ということと、ベルリンで本当に一般的なレベルに達しているのかという問題である。
 前者についてみると、確かにある意味で東京が高いレベルにあるかもしれないとは言えるだろうが、ベルリン(というより独仏)の実になんでもありな(シアタートークで作者が語った言葉だ)状況からすると、東京の演劇界はある許容範囲でその精巧さを競っている感は否めない。それが悪いというのではない。しかし、岡田氏は、そのような枠内での成功を志したのではないことは明らかだ。
 後者については、ひどく責任逃れの言説になるが、私よりもはるかにドイツの演劇事情に詳しい人物(専門家)が、「これは、ドイツでも十分通用する舞台である」と評価している(ネット上ではない)。
 彼はもっと広い演劇の可能性を追求したと見て間違いない。つまり、はじめから、日本の観客の「ウケ」は二の次だったと考えてもいい。このことは後述する。
 それが、私の評価した「世界レベル」という意味でもある。

2) 照明・観客席について
 観劇した者の多くが思ったと思うが、とりわけ芝居の前半で、舞台が見づらい。
 これは、客電(客席の照明)が落とされておらず、舞台の方は逆に暗いという事情によるものだ。もちろん、岡田氏は通常の照明を行うことを指示することもできただろう。
 これについて、そもそも論をしておくと、幻灯(によるエンターテインメント)であるだとか、影絵を使った人形劇だとかを除けば、19世紀初頭までは観客のいる場所も明るく、「照明」の問題としては舞台も観客も同じであった。ところが、近代的照明―ガス灯―が発明されて状況が変化した。
 それまでは、観客席も明るく、そこではおしゃべりをしたり、飲み食いをしたりしていた(現代でも、映画館におけるポップコーンとコークがある)。ところが、近代的な小屋で客席の照明を落とし、舞台に光を当てることで、すっかり客席はおとなしくなり、舞台で演じられる出来事に「心理的に没頭」できるようになった。しかし、このことは、それまであった舞台と観客席の一体感を取り去るものにもなった。つまり、俳優と、観客の間の決定的な壁―光と闇の―の成立である。
 この「壁」は、テレビ、インターネットの時代に継続して存在しているものだ。
 ところが、2009年、岡田演出では観客席に照明が残ることで、さらに、舞台は明るくなく、ライトが当たるべき人物にライトが当たらないことで、ひどく観客からは舞台が見づらいものとなったのだ。
 逆に、舞台からは観客を見ることが容易になる。通常の照明では、舞台の俳優たちはなかなか観客を見ることができないのだ。
 以上のことを考えるならば、あの照明には、次のような意図があったと考えられる。1) 舞台と観客席を同等なレベルのものとして観客に影響を与えること、2) 観客に舞台を見づらいものにして、何らかの効果を狙ったもの、3) 俳優に観客を見やすいものにして、何らかの効果を狙ったもの。
 この3つは明確に分離できるものではない。
 しかし、そういった可能性もあるが、私はこうも考えている。「私」はじろじろと淫靡な行為や無残な行為が繰り広げられる舞台を凝視せざるを得ない。しかし、ちょっと周りを見てみると、私と同じように、あの舞台に見入っている人物だらけであり、自分もその一人であるのだということが自覚されるのだ。そういった効果が狙われたのかという、この憶測が正しいかどうかはさておいて。

3) 新国立劇場のバックアップ体制について
 私の2月の関連記事ですでに述べたが、新国立劇場が装置や稽古にきちんと時間および金が取れるかどうかを危惧していた。
 塩田美術については良くやったと思う。ただし、稽古に時間がかけられたかは疑問だ。というのは、前の記事で述べたように、キャストの一部には、将来性はともかく、今回の舞台に関してはかなりシビアーであると想像される女優がいたからである。しかも、主演女優であり、ほぼ舞台に出ずっぱりだったのである。
 そのことを考えるなら、岡田氏がとりわけ彼女の指導に時間をかけたであろうことは容易に想像できることだ。
 さらに、あれだけの装置となると、稽古場でどれだけ装置と絡んだ稽古ができたかは疑問である。したがって、本番の舞台で装置がセットされてからの稽古の時間が極めて大切だろうが、その時間は十分あっただろうか。
 ただ、そういった疑問は残るが、彼らスタッフ・キャストは少なくとも私には十分見る価値のある舞台を提供をしてくれた。
 新国立劇場の専任スタッフの方々にもお疲れ様、と申し上げたいが、スケジュールはもっと柔軟なものになるようにお願いしたい。

4) 塩田装置について
 見所のひとつが塩田千春氏による美術であったことはいうまでもない。想像を超えるボリューム感であり、うがった見方をすれば、父親のもともとの姓であるWucht(ヴフト)は「重さ」「重圧」「ずっしり感」「圧力」というものを意味しているから、むしろそれを率直に表現したものという面もあるかもしれない。
 非常に良くできているのだが、正面から見るのが最適かどうかというのはやや疑問だ。なぜなら、すこし角度をつけて見たほうが、その立体構造が把握できるからである。あるいは2階席前方から見る(舞台は見下ろす)というのも、よいかもしれない。1階でも、2階でも座席が後方に行くに従って、大体多くの人が塩田装置と正対することになるわけだから3D感は味わえなくなる。
 そういう問題がある装置だったとは考える。従って、可能ならば、あらかじめ装置をある程度手前・後ろに傾けて(要するに斜めに)配置するというのも一つの手だったのではなかろうか。仮に、1)でいったような、観客が観客を見る、というような効果を強制的に狙ったものであれば―これは、観客席を明るくして、鏡を使うことで得られる―それは難しいが、今回の舞台では、必ずしも装置が観客に正対している必要はなかったのではないだろうか(モニター除く)。
 先の、稽古の時間と含めて、やや残念なところである。

5) 新国立劇場そのもの
 ブログの記事でとりわけ驚かされたのは、こういったものは岡田氏の「地盤」でやればよいのであり、新国立劇場でやるようなものではないという議論である。その議論を率直に解するのではなく、ちょっと異なった解釈も可能であるが・・・
 しかし、こういう新機軸を新国立劇場のようなところが行うことで、さまざまな人がそういったもの(新機軸)に触れるとことができ、ひいては日本の文化に多様性をもたらすことにもつながってゆくのではないだろうか。新国立劇場の今回の企画で、英独の(仏の)比較的新しい演劇に関心を持った人も少なくともある程度はいただろう。この公演で岡田利規氏を知ったという人も多いに違いない。
 そういうことに挑戦せず、無難な演劇を上演していたら―(新国立劇場のえらいさんリストを見ると愕然とするわけだが・・・彼らのことを考えると、それは大いにありそうなことだ)―そういったチャンスはかなり減るのだ。
 いや、(公がかかわらない)どこかの小劇場でやればいいだろう、という発想があるかもしれないが、現実にはそこそこ難しい。国外の現代物をやろうとすると、著作権関係の処理や、例えばパンフレットに何かを書いてもらうとかいった面倒な作業が待っているのだ。そもそも、今回のような企画は、新国立劇場のようなところが国外にもアンテナを伸ばすべく、研究会を持っていたからこそ可能になった話であろう。

6) 岡田氏の目指したもの(?)
 岡田氏のブログでひとつおさえておきたい記事がある。2008年12月7日のものだ。(http://chelfitsch.exblog.jp/m2008-12-01/の中にある)この記事は、ローアー氏と岡田氏がベルリンで会った数日後に書かれている。相対的にちょっと長いが引用しよう。

(ベルリンである舞台を見て)この舞台がこの街で上演されていることの必然と、その結果としてのリアクションが、ベルリンって街は、ありすぎる。それを目の当たりにしてしまって、この先自分がそうすればいいのか分からない。
やっぱりベルリンって演劇が社会に根付いてる都市だよねー、いいよねー、みたいにうっとりしたり羨ましがったりするだけ、なんてのは最低だから僕は絶対したくない。
それよか絶望の淵を数日間ただよっているほうがずっとまし。

 「ベルリンって演劇が社会に根付いてる都市」という認識、逆に言えば、日本/東京はそうでないという現実に対して、「いいよねー、みたいにうっとりしたり羨ましがったりするだけ」というのは、多くの人はそうなってしまいそうだけれども、そうはしない、という意思表明だ。「それよか絶望の淵を数日間ただよっているほうがずっとまし」だともいう。
 これは、単にある一定の認識を示したものだろうか。

 いや、私はそう思わない。彼は演劇人である。ということは、演劇の世界に(ひいては日本/東京に)ある程度影響力を発揮できる立場にある。そうであれば、単にベルリンをうらやましがるのではなく、「絶望の淵を数日間ただよって」でも、自分の演劇で「演劇が社会に根付いている日本/東京」になるようにしてやる、という決意表明と読み取ることができないだろうか。そうでなければ、うっとりしたり、羨ましがったりしているだけでもよいのだ。
 私はこう、彼のブログ記事を解釈した。そして、彼の今回の演出で、彼がとりあえずクリアーするべき目標は、ベルリン在住の原作者を満足させることだったのではないかとも思う。
 彼の意思については、私の単なる思い過ごしかもしれないが、今回の舞台は、その目標は確実に超えていたと私は思う。シアター・トークでの原作者の「すばらしい」との評は、私には、単なるお世辞とは全く思えなかった。

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2009.05.24

「民主党」-彼らはいったい何者なのか―彼らの不思議なメディア戦略
DPJ Who are they? Absurd Tactics to Media

 いうまでもないが、私は自由民主党(あるいは、その走狗たる公明党)支持者ではない。かといって、「民主党」なる、「オルタナタィブ」政党、その実「第二自民党」といってもよい、いまや破綻が明瞭になった新自由主義政策を「自民党と競い合」ったこの政党を支持しているわけではない。多少なりとも社会民主主義的である政党を(とりあえず)支持している。

 したがって、次に予定されている衆議院選挙で彼ら(民主党)が敗北しようが全く私には関係ない。
 民主党が言う「政権交代」はそれ自体では本来、支持できる話ではない。
 ただ、そのことが自民党という、日本が現代的な国家を名乗るのなら本来あってはならないような政党がいつまでも政権を握り続けるという事態と直接関係しているのならば話は別である。
 そういうわけで、ここでは私が全く支持しない民主党の今回の代表選挙について述べることにする。

 (この記事を本来、もっと前に書くべきだったが、ずるずると延びてしまった。)

 多くの人が指摘しているが、もっと長く選挙戦をしてメディアに露出するべきだったし、地方や一般党員に投票させ、認知度を高めるというのは当然だったろう。いったい何を考えているのか。

 『週刊朝日』2005.5.29号の「小沢「私党」になった民主党」、および同「親小沢 反小沢で見るメディアの過ち」(上杉隆)にあるが、どうもこの短すぎる選挙日程を設定したのは小沢一郎氏本人だったようだ。
 前者の論文執筆者の見立てでは、これは小沢氏の権力が及ぶ鳩山由紀夫氏を次期代表にするためだったという。
 「12日の両院議員総会で」(代表選選挙人を党員などに拡大することや、「せめて」月曜日に投票すること)「など、党勢拡大を考えたら当然の要求」がはねつけられたのだという。
 いったいなにを考えているのか。
 前者の論文でも、上杉氏の論文でも述べられているように、全く稚拙なやり方である。
 繰り返すが、現代のメディアのあり方を考えたなら、もっと長く選挙戦をやるべきだったし、そこで民主党の、あるいは候補者の政策を訴えるべきだったろう。

 ひょっとすると、昨年NHKがやってしまったように、立候補者の演説をえんえん流すという「自民党プロパガンダの時間」をNHKは民主党にもプレゼントしてくれたかもしれない。(ひょっとして、してくれた?)

 しかし、実際にNHKがやったことは、鳩山氏と岡田氏がどの程度支持基盤を固めているか、という、例によって「政局報道」そのものでしかなかった(私がちらっと見た範囲内でしかないけれども)。
 民主党支持者も(NHKによって)馬鹿にされたものだが、NHKとしては、彼らをテレビ画面に登場させ、しゃべらせるということはなるだけ避けたかったのかもしれない。ただ、そうなったタネをまいたのは民主党自身である。

 折からの豚インフルエンザ空騒ぎのせいで、ますます党首選挙の報道は少なくなっただろうし、NHK的には、この全くどうでもいい騒動を煽ってみせることで、民主党党首選挙の報道時間を少なくしたかったのかもしれない。それよりは、桝添氏や麻生氏に画面でしゃべらせたかったのだろう。陰謀論だけど。

 ここで、これらの記事にはないことを書いておくと、もっとたくさんの人間を立候補させるべきだった。そうしないと、一般の国民にはどのような人物が民主党にいて、どのような考え方なのかが全くわからない。鳩山氏であるだとか、岡田氏はすでに認知があるだろう。党のその他の人間がメディアに露出することで、認知度も上がることが期待され、次世代も育ったろう。

 前者の記事には、ますます民主党に対する不信感を強める記事も掲載されている。民主党は、もともと自民党であるだとか、松下政経塾であるだとかいったところにルーツを持つ保守、あるいは新自由主義者といった丸の内と密接に結びついた者が多い上に、この記事によるとさらに、党に「小沢流」が持ち込まれたことで、業界頼みの選挙といった、全く自民党そのものの選挙手法になっているというのだ。

 次に民主党が政権をとっても仕方ないが、まず、自民党を現在の社民党レベルの小政党まで解体させなければならない。国際的に全く通用しない言辞を弄する人間を多く抱えるこのような政党は、先に述べたように本来これほど大きい政党であってはならないのだ。

 そして、日本のような警察国家(警察というわけではないけれど、検察の異常さは同誌横田一論文および郷原信郎コメントで明瞭に指摘されている)、かつ全てが保守というマスコミしかない状況では困難を極めるだろうが、きちんとした社会民主主義政党を成長させなければならない。

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2009.05.23

政治ショー、あるいはバケツリレー演習としての豚インフルエンザ騒動
Swine Flu Fuss as Political-Show or Panic-Mongering

 私はこの豚インフルエンザ騒動がはじまったあたりから、世界の(といっても、米英独だが)メディアの報じ方を見守ってきた。比較して言うならば、日本は極めて特異である。

 いまだに日本のマスコミが豚インフルエンザについて大騒ぎを繰り広げているのには驚く。
 これでは、報道されるべき事項も報道できないだろう。
 以下、総論を述べた後、各論を4項目にわたって述べる。

1) 全体に・およびマスコミ報道
 とりわけNHKは、「災害報道」(豚インフルエンザが災害かどうかはともかく)に期待されていると自分自身思っているのか、法や指針でそう決まっているからと思っているのか、視聴率が取れるからと思っているのか、はたまた、「政治家の意図を斟酌して」そうしているのかわからないが、激しくこの話題を報じ続けている。(豚インフルエンザのせいではなく、政府とマスコミの)おかげで通常の社会生活にも影響が出始めている始末だ。

 特徴的なのはこういったことである。この豚インフルエンザは、通常、健常者なら、かかってもカゼを引いたぐらいの症状しか出ない。悪くて通常のインフルエンザの症状だ。「だから」インフルエンザの感染者を見つけるのが難しく、厄介なのだ、と彼らはいう。つまり、インフルエンザの症状が重篤であればあるほど、マスコミとか政府にとってはうれしいのだ。

 しかし、普通の感覚で考えるなら、このインフルエンザの症状が軽いということは喜ばしいことではないだろうか。
 そうであるならば、特に大騒ぎをすることもないはずである。仮に、私がかかったとしても、軽症のほうがうれしいのは明らかだ。
 さらに、豚インフルエンザが「思ったよりも軽症」であることを積極的に報じるでもなく、この先「万が一」重症をもたらすインフルエンザに変異しかねないことを頻繁に「警告」するありさまだ。将来の「万が一」より、現在確実に起きていることを報道すべきだ。それが「ニュース」だろう。
 そもそも「警告」してどうなるのだろう。なるようにしかならないだろう。ひょっとすると、感染者が少なければ少ないほどその「万が一」は起きないという(これは、正当な)論理が用意されているかもしれないが、長い目で見ると人為的に何かをすることはほとんど無理であることは明らかだ。

 ここには事態が深刻であればあるほどうれしいという、マスコミの体質が典型的に現れている。

 私はとりわけドイツのメディアを追っているが、すでに4月の終わりには、今回のインフルエンザが通常のインフルエンザ、あるいは他の病気と比較しても、それより悪質だということはないとはっきり伝えていた(このことは死者が出ないという意味ではない;通常のインフルエンザでも年に1万-1万5千人の死者が出るということと比較して評価されているのである)。日本では、そう思ってはいても、なかなか真実を伝えられない雰囲気が醸成されているといって過言ではない。というのは、「万が一」なにかあったときに、過去の発言を詮索される可能性がないともいえないからだ。前にどこかで書いたが、日本では「危機感のないやつ」というのは「危機感を持ちすぎのやつ」より、より低級な人間と見なされているのだ。

 しかし、「万が一」のことを通常のことのように扱う方がむしろおかしくないだろうか。それは、確率評価とその影響―つまりリスク評価―にかかわるが、日本国でできる対策ということを考えた場合、明らかに不安をあおるだけの無用な報道であったと評価する。(後述)

 日本が島国であるから、空港での検疫で食い止められる、という政府とマスコミが振りまいた妄想は、日本人の多くに感染している極端な「クリーン発想」(このために、「賞味期限」を少しでも超える食品は「食べられない」という人もいるほどだ)にはピッタリなものだったろう。
 しかし、現実の前に、そういった観念論は吹き飛んでしまった。検疫では国内へのインフルエンザ侵入を防ぐことはできない。理性のある人だれもが知っていた事実が実証されただけである。検疫にかりだされた人にはご苦労様というしかないし、ほぼ無駄なことに費やされた税金はいったい誰が払うのかと問いたい。

 ドイツでは、5月に入ったあたりから、すでにインフルエンザの話題は激減した。今はほとんど全くない(主要マスコミのサイトを見れば確認できる)。感染がなくなったというわけではないだろう。しかし、かぜ程度の症状になぜ大騒ぎをする必要があるのか?もちろん、ドイツは日本のように島国ではないから、他国からのウィルスの侵入にはより弱い(さらに日本よりも乾燥している)。しかし、結果的にみればたいして被害を出していないし、「ドイツ連邦共和国創立60周年祝賀行事」といった大々的な集会が取りやめになっているという話も全く聞かない(日本なら、どんなにリスクが小さくても、(無意味に、つまり象徴あるいは責任逃れとして)まず中止になっているだろう)。テレビなどの映像でもマスクをしている人をほとんど全く見かけることはない。
 日本より、かの国の報道や対応がよほど理性的であることは明らかだ。そして、それは私がみるところ多くの国でそうである。

2) 政治家とマスコミ
 それに乗っているのが一部政治家だ。桝添厚生労働大臣はここぞとばかり「テレビに登場」した。いや、正確にいうと、テレビが報道したのだ。麻生総理もまた「テレビに登場」した。例ののんびりした口調で、1秒でも長くテレビに露出したいという意図がミエミエである。
 メディア理論では、ある人がメディアに露出すればするほど視聴者は出ている人に親近感を抱く。その効果を狙っているのは明白だった。
 桝添氏は、次期選挙の時点では、もしかすると自民党総裁の座にその「好感度」ゆえにすわっているかもしれないとされる人物だ。自民党がなるべく彼をマスメディアに押し出したいと考えても不思議ではない。それに、例によって協力しているのがNHKである。
 別にNHKは、彼ら(桝添・麻生氏)の姿を映す必要はないはずだ。彼らが冗長にしゃべったことをまとめて報じればよい。しかしそうしなかった。それは、彼ら(桝添・麻生)の選挙の事前運動に加担したと取られても仕方がない。

 マスコミ(テレビ)は、政治家を映し出す必要がないし、要約をアナウンサーに語らせるべきである。そうでなければ、今のような事件・事故を含むあらゆるイヴェントの政治利用が続くだろう。

3) マスク騒ぎとバケツリレー
 ドイツでは、この騒ぎの初期の時点からベルリンのロバート・コッホ・インスティテュートがマスクに関する見解を出していた。(4月30日)
 http://www.rki.de/cln_091/nn_200120/DE/Content/InfAZ/I/Influenza/IPV/Hygienemaske.html

 ちなみに、この研究所は各方面からかなりの信頼性をもたれているものだ。

 それによれば、マスクはある程度ウィルスから人間を防御するが、これでインフルエンザ感染を防げるわけではない
 しかも、マスク着用にはいくつかの条件がある。着用前に手を洗う、2-3時間ごとにマスクを取り替える、マスクを取るときには、表裏の面に触らないなどだ。
 マスク着用を実行したとしても、感染を防げないとなると、現在日本でパニックのように行われていることは実際にはなんとかゴッコのようなものだと評されてもしかたがない。
 インフルエンザ感染をまじめに考えている者は、そんなことは承知しているはずだ。しかし、だからといって、この「マスク製造業界」とか「薬局」のみが喜びそうなこのパニックに対してなんら正しい情報を発信しようとしない・できない。
 これは、結局この空騒ぎが、「正しいとか間違っているとかいった議論をおいておいいて」「みんなが協力すべき」「国民総動員運動」として理解されているからだろう、と私は解釈する。そうでなければ、このような無駄な「国民運動」が煽られている理由がさっぱり分からない。
 そして、根拠・理性なき国民運動というのは、私が嫌うものだ。
 何がしかの行為には、何がしかの代償が必ず伴う。何らかの正当性があるのならば、私も国の行うキャンペーンに協力しないでもないが、根拠のない行為を私は押し付けられたくない。

 それよりなにより、根拠のないことであっても、国が行うキャンペーンであれば協力するのが当然である、というイデオロギーがこの国に満ち満ちていることを危惧する

4) 空港検疫
 「水際」での検疫にたずさわれた方々にはお礼を申し上げたいし、お疲れ様でしたと申し上げたい。
 しかし、この水際作戦は問題があった。これはいくつかの週刊誌などで指摘されているからあらためてとりあげない。
 ただ、いくつか書いておこう。
 初期はともかく、病状がさほどないと分かってもとられた「隔離政策」は、過去に日本政府が取ってきた伝染病対策のさまざまな過誤の教訓が全く考えられていないものだった。そういったものはすでに反省したのではなかったのか。次は、改善されることを期待しよう。
 あと、ウィルスを水際で防御できる、という発想と情報もシャットアウトできるという発想はおそらく同根だろう。島国だし、後者については日本語のバリアもある。しかし、情報については、いまや、国外でどのようなインフルエンザ対策が行われているかなどすぐに分かる。そうであれば、日本政府の行った、自民党の政治効果を狙った対策がいかにも間抜けで大げさであることは、国外の情報源にアクセスすることのできる人の目から見れば明らかだったろう。

 いい加減、情報鎖国前提の政策はやめてもらいたい。

5) 万が一
 この大騒ぎ、あるいは空騒ぎは北朝鮮のミサイル(あるいはロケット、どうでもいいが)発射の際の大騒ぎを思いおこさせる。『世界』2009.6で神保太郎氏が指摘していたが、そこでメディアが多用していた言葉が「万が一」「万一」という言葉だった。
 「現在はほとんど深刻な状況をもたらす病気(豚インフルエンザ)ではないが、万が一「強毒性」に変化すると危険だ」「だから大騒ぎしなければならない」といった状況は、次のような言説とそっくりだ。
 「現在、日本に北朝鮮の「飛翔体」が落下する恐れはほとんどないが、万が一落下すると危険だ」「だから大騒ぎしなければならない」
 「大騒ぎ」したところで日本の迎撃ミサイルでは「飛翔体」をまず撃ち落とせないことは明らかだったし、日本がどれだけ騒いだところで豚インフルエンザワクチン製造に時間がかかることは(言い換えるなら、大騒ぎしたところでワクチン製造にかかる時間を短縮できないことは)明らかだった。そもそも、「風邪のような症状」が主で、悪くして一般のインフルエンザのような症状をもたらす「だけ」の(豚)インフルエンザに対してどれだけのワクチン需要があるかも怪しい。
 
 万が一、というのは考えない方がよい。いやむしろ、正式の政策思考としてみれば排除すべき発想法だ。それより、「こうなればこうなる」という、もっと現実的なことを考えるべき
だし、いまだ起こっていない事象に対して、「万が一に備える」というのはコストがかかりすぎる。もっときちんとしたリスク評価が必要だ。

 要するに、頭をさます必要があるということだ。普通、「万が一」を考えている人間は夢想家として扱われる。宝くじを買って即座にそのくじがあたった後(まあ、こちらは万が一よりもさらに確率が低いけれども)を想像する者のように。

 今の日本では、全ての国民にそういった妄想家になることが強要されているのである。

 日本の慣習に従って次の文を付け加えておこう。

「以上の文にもかかわらず、当記事ならびに筆者は豚インフルエンザが危険なものでないことを一切保障しません。自分自身の責任においてインフルエンザに対処してください。」

関連記事「アサヒ・コムの不思議な「新型インフルエンザ 「よく効く知識」」を検証する

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2009.05.22

新国立劇場の岡田利規演出デーア・ローアー「タトゥー」について
Toshiki Okada inszeniert Der Lohers ≪Tatowierung≫ am Neuen Nationaltheater Tokyo

 最初に単純な評価をしておけば、これは世界水準の演劇だ。超一流というものではないのはもちろんだが。「タトゥー」が旬の時期であれば、他の国で同じ舞台を上演しても十分通用しただろう。岡田利規氏の海外公演の経験がものをいったかもしれない。

 以下、私自身の「劇評」もどきを書き、次に朝日新聞の「本物の」劇評について論評する。

(関連する前の記事;「新国立劇場デーア・ローアー『タトゥー』(tattoo)への期待」2009.2.14)

(関連する最新の記事(この記事のつづき);「新国立劇場の岡田利規演出デーア・ローアー「タトゥー」について2」2009.5.27)(初出5.26)

 断っておくが、私は芝居を見る前に、論創社の「現代ドイツ戯曲選」全30巻に含まれる翻訳を手にしていた。
 ただ、実際に読んだのは最初の数ページ。あとはパラパラ。最初から最後まで通して読んだわけではない(芝居にこれから行くのだから、ネタバレになってしまうという理由もある)。
 本を手に取った人多くの人が思ったと思うが、ページ数の割りに「白い」なあ、と感じた。というのは、ページの下半分はほとんど真っ白、文字はページ上半分に収まってしまっているからだ。つまり、ことばが極めて短い単位で切られているのだ。まさに詩のようなのである。
 さらに、このことから、芝居を見て、(少なくとも)芝居冒頭のせりふあたりが原作に(翻訳に)即しているものだということもわかった。
 ただ、お話自体はよくわかっていない状態で芝居を見た。全体を通して読んでいないので当然である。

 それでは、「劇評」もどきである。

 観たのは5月17日。シアター・トークのある日だ。
 小屋にはいり、まずは塩田装置(塩田千春、ベルリン在住)に圧倒される。舞台に上から「紐」でつるされたさまざまなオブジェクト。オブジェクトは、上演時には昇降する。例えばピアノが降りてくるわけだ。紐は塩田氏の作品でよく登場するものだが、紐がこのような使い方をされるとは想像できなかった。別の見方をすれば、芝居全体に登場するオブジェクトが開演前から(トランクなど小道具を除き)全てさらけ出されているといえる。それらはいったい、どのような「意味」ないし「役割」をこれから芝居にもたらしてくれるのであろうか、という関心を最初からそそる。全体として、まさに塩田氏オリジナルのものというしかないものだ。
 上演がはじまる。どうも、主演女優(姉役、柴本幸)のしゃべりがぎこちない。上演後のトークの質疑で飛び出したような「棒読み」的な印象を免れない。ただ、せりふ自体は先に述べたように翻訳どおりであることはわかった(現実には、翻訳から、さらにオリジナル独文に近いように再度変更されているそうだ;後のトークで語られたこと)。このタイプのしゃべりは他の役者さんたちは問題なくこなしており、芝居にある種のリズム感をもたらすものになったともいえよう。
 次に気づくのは照明だ。明るくあるべきところが暗いといったことだ。役者にライトが当たらないこともある。これは意図的にそうしているのであろう。舞台の周縁部分に役者が残ってなにかをしている/していない状況で、われわれは中心部(つまり塩田装置の下)で行われる芝居を見る、という時もある。その周縁部の役者さんたちの動きがどことなくタンツ的な様相を帯びる。
 音響はほとんどない。途中、歌が字幕(塩田装置の一部に組み込まれたディスプレイに映し出される)つきで流れるぐらいだ。
 話自体は最初は淡々と進み、後になるにつれ盛り上がりを見せる。最初は鬼畜オヤジにある程度笑うこともできるが、後半は深刻だ。どうにもならない状況に追い込まれてゆく。
 演出それ自体としてみれば、全体としてこの話をよく見せてくれたと思う。ただ、よく作りこまれた部分とそうでないところがあったことは否めない。「間」とか「動き」とかがもう少し考えられてもよかっただろう。演技についても例えば中盤にさしかかるところで、姉と若い男との(出会う頃の)シーンがあるが、ここはもうすこし何かしようがあったはずだ。
 このシーンに限らないが、主演女優はやや精彩に欠ける部分なしとはしないだろう。聞くところによれば、これが彼女にとってほぼ舞台「初挑戦」となるらしい。新国立劇場、「現代」ドイツの翻訳劇、岡田利規演出ということを考えるならば、このキャスティングには疑問を感じないわけにはいかない。
 ただ、この将来が期待される主演女優のキャスティングによって、姉の「周囲から徹底的にふりまわされる存在」という側面が強調されるという副次的効果があったかもしれない。あるいは、岡田氏がそう思い定めて演出したとも考えられる。
 また、塩田装置と演技が十分に絡んでいたかという点についても(いわゆる「有機的に」)やや不満が残る。俳優の立ち位置だとか、動作だとかいったことが十分に練りこまれているともいえないかもしれない。
 ただ、こうしたいくつかの問題を抱えているにもかかわらず、この芝居は大変魅力的である。
 全体の流れに戻ると、せりふが先に述べたように一種細切れになっているせいか(あるいはそれによって生み出されるリズムによってか)、印象としては「インスタレーションの連続」を見ている感じでもある。これは、塩田装置と組み合わされ、一時間半のモダンアートを鑑賞しているような贅沢な雰囲気を味わうことができる。その上、全体はローアー氏の脚本によって流れがきちんとつけられているのだ。話の全てを上演中に考えつくすことは出来ないかもしれないが、観客は小屋を出た後でもいろいろ考えることで、よりよく楽しめるだろう。
 これ以上なにをいうことがあろうか。先に示したように、いくつかの問題―とりわけ、演出の濃淡が多少あるという問題―があるにせよ、東京でこのレベルの芝居を―国外招聘公演ではなく―見ることができることに拍手を送りたい。さらに、演出の岡田氏は―自分で書いたものではなく―与えられた脚本を演出するという仕事に対しても優れた能力があることを見せつけた。今後の展開がより楽しみになったといえよう。

 以上。では、後半。朝日新聞の劇評についてである。端的に言って、評論のレベルのあまりの低さに唖然とした。上の私の「劇評」もどきが優れているといいたいのではない。カネを受け取って書くプロフェッショナルがこの水準で通用しているのだ、と思うと、日本国の演劇水準について考え込まざるを得ない。

 5月19日夕刊Beの「新国立劇場「タトゥー」 心の傷、現代の神話劇に」との記事がそれである。

 まず、タイトルで、どこが「神話劇」なのか。ひょっとすると、デーア・ローアー氏がコロス(ギリシア劇にある合唱隊)を使うことを指していっているのかもしれないが、「タトゥー」にはコロスは登場しないし、どこからどうみても「神話劇」といえるようなものでないことは明らかだ。あるいは、神話にはインセスト話が多いからだとか?
 また、次のように述べられる。

 しかし、骨格のしっかりした劇世界だけに、従来の心理手法に対する明晰(めいせき)な異議申し立てと思い定めれば、刺激に満ちた観劇体験になる。現実の人生こそ不可解。だから舞台も口当たりが良く、分かりやすければいいとは限らない、か。

 私は全く「従来の心理手法に対する明晰な異議申し立て」とは思っていない。岡田氏がやりたいようにやっただけ―どの程度できたかどうはともかく―で、異議申し立てをするつもりで演出したとはこれっぽっちも思えない。それより、ここで透けて見えるのは評論者(山本健一氏)の「従来の心理手法」に対するこだわりである。どうやら、演劇というのはすべからく「従来の心理手法」にのっとって上演されなければならず、それからの逸脱(「逸脱」と括弧書きにしたいところだ)は「異議申し立て」になるのだという、それこそどこに根拠があるかわからない話なのである。
 あるいは、「思い定め」なければ、「刺激に満ちた観劇体験にな」らないとか?
 「現実の人生こそ不可解。だから舞台も」うんぬんについては、何をかいわんやである。この岡田演出の舞台が「不可解」だったのだろうか。なにをもって「可解」なのかもわからないが、すくなくとも、私は私なりにこの舞台は「わかった」し、なにをもってわからないといっているかがわからない。私のいう「わかった」というのは、最低原作の内容が通り一遍理解されたという意味で「わかった」である。そこは基本ラインだ。話の筋がわからない、ということはこの演出で、(よほど演劇リテラシーが低くない限り)まずありえないだろう。むろん、先に述べたように芝居小屋を出てから、芝居を反芻してみて、さらに「わかった」こともある。しかし、一時間半の上演中で普通はそれなりに話はわかるだろう。
 さらになにを「わかりたい」のだろうか。このせりふの次にこのせりふがくる必然性?、それともこのシーンで役者がこう動く必然性?
 そういったことが「わかりやす」ければよい芝居なのか。そのような発想はテレビ番組がひたすら多くの人に「わかりやすい」という価値観を志向しているのと同じである(したがって、テレビ番組が年を追うごとに低レベル化することになる;金を払って、さらには時間と労力を使い、新国に行ってまで低レベルの演劇を見たいだろうか?)。われわれには頭があるのだから、それ以上の上演から受ける何かというのは観客が自分自身でつくるものだろう。演出家から自動的に与えられるものではない。言ってみれば、演出家は材料を提供するのだ。
 「だから舞台も口当たりが良く、分かりやすければいいとは限らない、か。」の「、か。」という書き方の醜怪さには驚くが、言い換えれば、評論者には「舞台も口当たりが良く、分かりやすければいい」という観念があり、しかし、評論者にとっては口当たりが良くなく、分かりやすくもなかった、ということだろう。
 私から見れば、特に普段から学習もしていない子供が「先生の教え方が悪い」といっているようにしか見えない。

 なんて低レベルなんだろう。

 さらに、

岡田は・・・声の独特な抑揚が武器だ。今回は身ぶりを抑制する。その動きと声が役の心にどこまで届いているか定かではない。

 とする。

 「役の心」。
 どうも、評論者には俳優が、もしくは、俳優から受ける観客の印象が「役の心」に届かなければならない、と信じているようだ。
 やや大雑把だし、単純化があるが、私がAという役をやるとすると、私はAになりきらないといけない(それでこそ「迫真の」演技ができる)、ということをいっているのだろう。あるいは、観客が俳優から受ける印象がまさにAの心を体現していると感じられるべきだ、といっているのだろう。そうでなければ「役の心」という発想は出てこない。
 だが、果たして舞台でそうあるべきなのか。あるいは映画でもテレビでもはたまた小説でも。私は私だけれども、Aという役を演じる、あるいはAの立場を解釈し、自分自身をこう振舞わせる、というのが当然のあり方ではないだろうか。

 吹越満氏(父役)はどうにもならないクソ親父ではない(たぶん;なお、ここに書いているのはあくまで一般論を論ずるための例であって、吹越氏と「役の心」との関係を論じたいわけではない)。その役を演じるだけだ。吹越氏はクソ親父そのものになる必要は全くないのだ。彼の「動きと声」が「父親の心」に届く必要などない。「役の心」などといったものを自分自身にインストールする必要などさらさらない。より正確に言っておくと、演劇によってしてもいいし、しなくてもよい。

 俳優は俳優で、演出は演出であるべき演技を模索すればよい。それを、「役の心」といったものにどれだけ到達できたか、といった全く不明瞭な基準で、さらにはその基準が相当程度重視されるべきだという前提で芝居の出来不出来を論ずるのは問題だろう。いやむしろ、カネをもらって書いている評論者の義務を誠実に果たしていないとすらいえる。なぜなら、そんなことは、誰にだって書けるからだ。

 朝日の文芸欄といったら、多くの人がそこそこ価値あるものとして読むだろう。その実態がこのようなものであるならば、それは日本の演劇をひたすら貧しいものにしてゆくことにしかならない。

 新国立劇場には、今後とも、今回のように世界水準の演劇を紹介し、日本の演劇界が夜郎自大に陥らないように引き続いた努力をお願いしたい。(トークの際に客席から出ていたように、DVD化も是非お願いしたい)
 今言ったことがむなしい願いに終わらないといいのだが・・・

(後(つづき、補足)の記事;「新国立劇場の岡田利規演出デーア・ローアー「タトゥー」について2」2009.5.26)(初出5.26)

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