2009.07.30

書評 アラン・ワイズマン『人類が消えた世界』
Book Review: The World Without Us By Alan Wiseman

 遅まきながら、評判の高い、アラン・ワイズマンの『人類が消えた世界』((2008、原著2007)鬼澤忍訳、早川書房、Alan Weisman "The World Without Us")を読んだ。

 取り上げられている話題は世界のさまざまな地域にわたっており、ちょっと日本人の著者では書くことができるとは思えない内容だ。NHKあたりならできそうではあるが。そういうわけで、この方面には暗い私にはかなりコストパフォーマンスの高い本だった。

 タイトルは、「われわれのいない世界」ということで、『人類が消えた世界』という邦題はそう遠くない。しかし、この書の重点は未来予測をすることにあるわけではない。むしろ、過去・現在において人間がなしてきたこと、なしていることをわれわれに伝えることが中心だ。「専門家」の考えも紹介され、それによって結果的に「われわれのいない世界」を予測する、ということになる。

 その「人間がなしてきたこと、なしていること」だが、全体としてみればとても重い気持ちにならざるを得ないだろう。「功罪」という大雑把なくくり方をするのなら、「罪」の方がどうしても重くなってしまう。第一部の末尾は将来、ヒヒがどういう生態系での立場を獲得するか、という問いのようにも読めるが、もちろん、人類が「好奇心に衝き動かされ、ますます強大になるおのれの力に酔いしれ」「自分の身と地球を存亡の危機に立たせ」ているということを指摘しているのだろうから、著者も全体として同じような評価をしているのだろう。

 「罪」というといわゆる先進国が、という見方になりがちであるが、決してそうでもないこともわかる。むしろ、人間の性(さが)のようなもので、ただその現れ方が異なる、というものだろう。アフリカの現状のレポートにも暗澹たる気持ちになってしまう。

 しかしまた、人類全員が、突如「ラプチャー」(携挙、by レフト・ビハインド)されてしまったら、とんでもないことが起こるということも示されている。現在、われわれの「文明」を成り立たせているものが、かなり長い間続く重荷になっているのだ。典型的には核の問題で、われわれは核の恩恵に現在あずかっているが、しかしまた、これは後世に重いツケを払わせることになるものなのだ。

 どうも、人類が行い続けた文明化(とりわけ19世紀以降)というものが、大体において今日的観点から見ると、後先考えない「軽はずみな」ものが多く、しかも、現在行っていることは熟慮されているものばかりである、ともいえないようなのだ。本書では例えば、これは農薬の使用について示されている。

 こういった「技術」の問題は、もはや取り返しのつかない状況になっているものもあるようだが、将来は改善されるものもあるかもしれない。しかし、人類の数そのものが、地球に対する強烈な負荷になっていることは明らかだ。

 (とりわけ世界的に)周りを見回せば人類が多すぎることは明らかであるが、自分の子供はたくさんほしいという個人的な欲望を抑えることは難しい。日本の人口も明治維新以来数倍になってしまった。本書の末尾には、「子供を一人までに制限したらどうなるか」というシミュレーションがあるが、おそらくはこれぐらいしないと破滅的結果は避けられないだろう。

 本書は、生物の持つ生命力を再認識させてもくれるが、「私」であるだとか、「人間」であるだとか、「人類」とかを考える材料を提示してくれる良書だといえよう。

 (以上書評;ここからは私の考え;人口の問題について)
 地域によって生存率に差があるから、地域ごとに「一人まで」「二人まで」「三人まで」と使い分けることができればよいかもしれないが、現実にはこうした発想はかなりの困難を伴う。というより、たぶん、無理だろう。個人に任せておいても、ひょっとしたら、劇的に世界人口を抑えることができるかもしれないが、そうでなければ、待っているのは人類文明の破滅である(もっとも、人間がいなくなるというわけではないだろうが。ただ、人口は強制的にだいぶ減少するだろう。すでにローマ・クラブ報告以来長年にわたって警告されていることである)。

 こうした人口問題を考える場合、本書では控えられているが、やはり宗教の問題は外せないだろう。私は仏教徒ではないが、この点では、シャカや仏教の教えを見直してもよいかもしれない。

 2009年7月末現在、民主党などが「子育て手当て」として選挙目当てのバラマキのつもりなのかわからない政策を掲げているが、この政策の真の問題は、財源にあるのではなく、彼らの持っている(持っているとして)ヴィジョンがあいかわらずの右肩上がり(せいぜい現状維持)のアナクロな発想から生まれているということにあるのだ。

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2009.07.24

歴史を歪曲する岸井成格氏のTBSサンデー・モーニングでの発言
Kishida Shigetada Twisted Historycal Facts In "Sunday Morning"

 2009年7月19日のTBS『サンデー・モーニング』には心底驚かされた。番組において重要な立場である氏によってとんでもない歴史の歪曲が行われたのである。放送法に「報道は事実をまげないですること」とあるが、サンデー・モーニングが報道ではないと主張するにせよ、もし、そうした立場から何を言ってもよいのだ、とするのは視聴者を愚弄するものだ。

 問題の発言は三つ。ヴィデオにとっているわけではないので要点を。ちなみに、55年体制、という言葉を表には出さなかったと記憶している。発言も、以下に整理するようにすっきりしたものではないが、事実上そうだ。

1) 55年体制での日本の政党の「対立軸」は米ソ対立を反映したものである
2) 55年体制下で、自由で、民主主義な政党は自由民主党しかなかった
3)冷戦が終了したので、小選挙区制を導入し、二大政党制になった

 この話は、現在、二大政党制の下で「はじめて」政権交代が現実に可能になっている、という彼の評価に基づいたものなのだが、これも誤りだ。その前の参議院選挙で自民党が敗北していたという点では、実は前回の衆議院選挙も同じなのである。その気になれば、前回衆議院選挙でも政権交代は可能だったのはいうまでもない。ただし、前回の衆議院選挙は例の郵政選挙というとんでもないものだったのは、さすがに彼も覚えていよう。

 今は歴史的経緯を知らない人も多いだろうし、忘れてしまった人も多いだろう。そこで、わたしがここで「そこそこ正しい歴史」を以下に示すが、岸井氏のような大新聞社のえらいさんであって、毎週の有力ニュースショーの常連かつ影響力のある地位にある人物が同じように「忘れている」(?)というのは問題である。

1) 歪曲その1;55年体制での日本の政党の「対立」は米ソ対立を反映したものである
 自民党と社会党を基軸に、民社党、共産党、公明党といった党があるという5党体制が基本だったが、どれかの党が米国を代表しており、どれかの党がソ連を代表しているといったことはない。ただ、自民党が今に至るまで、米国の影響下にあるのは明らかだ。
 ソ連を代表するような政党はなかった。社会党はそう見えたとしても、実はそうではない。社会党の立場は(どれぐらい本気だったかはともかく)米国の影響を排除するというものだったから、比較上、そう見えただけだ。

 70年代までは、両者とも「ケインズ型」と称される混合経済、福祉国家タイプの国家ヴィジョンの実現に進んでおり、違いは、自民党がより財界(経営陣)や農民の、社会党がより労働側の利益を主張していたという点にあった。これは明らかだ。それともう「ひとつ」の違いは憲法問題と、日米安全保障問題であり、この2つは関係している(ただし、国民の利益という観点からは、実はこれは象徴的なもので、主たる論点ではなかった)。
 もちろん、社会党は「日ソ安全保障条約」を結ぶという立場ではなかった(仮にそのようなことを主張したならば、ほぼ即座に少数党に転落していただろう)。

 従って、その対立は基本的に冷戦とは関係がない。だから欧州で、冷戦終了後、社会党と同等の立場にある政党が没落したり、消滅したりしたといったことはないわけだ。例を挙げておくと、英国で労働党、フランスで社会党、ドイツで社会民主党である。これら政党は、現在でも政権を争う位置にある。もっとも、近年退潮が目立つ国もある。ただ、知っての通り、今のところは労働党は単独政権与党、社会民主党は連立政権に比較少数党として与党の立場にある(とはいえ、もう終わっているも同然だけど)。

2) 歪曲その2;55年体制下で、自由で、民主主義な政党は自由民主党しかなかった
 こんなことを堂々といえるとはすごいものだ。ということは、社会党、民社党、共産党、公明党のいずれも、自由ではないか、民主主義ではないかといったことを岸井氏は主張しることになる。

 全くこれは驚くべきことで、当時を知っている人から見れば、むしろ自民党こそ、自由を抑圧し、民主主義に反対していた(つまり、一部のボス政治、ボス利権に固執していた)ことからすれば、どうしてそういえるのか不思議だ。自由民主党は保守政党だから、個人の自由を抑圧するのは当たり前である。一般に、社会民主主義勢力(当時は「革新勢力」と呼ばれていたが)の方が個人の自由を尊重していたし、している。(最近のメタボ健診や、インターネットにおける表現の自由の問題を見よ)

 自民党は、より個人の自由を抑圧し、集団に従属させる方向を打ち出していた(典型的には改憲)ことは議論の余地がない。一体どうしてこんな歪曲ができるのか。

 岸井氏は、そうすると「新自由クラブ」もまた、自由でないか、民主主義でない、と主張するのだろうか。

3) 歪曲その3;冷戦が終了したので、小選挙区制を導入し、二大政党制になった
 小選挙区制の導入は、(全くないとはいえないものの)冷戦終結とは基本的には関係ない。

 それはずっと、保守勢力の悲願だったものだ。鳩山、田中のそれぞれの政権で課題となったものだが、断念に至った経緯がある。現在に至る衆議院の小選挙区制度の導入は、まだベルリンの壁崩壊とか、マルタ会談とかいった1989年後半に起きた冷戦崩壊の象徴的な出来事の前から議論がなされていたものである。

 選挙制度変更の直接の「きっかけ」(というより口実)とされたものは、リクルート事件で、これによって「政治とカネ」の問題がクローズアップされ、その解決を選挙制度変更に求めるという奇妙なことになったのだ。

 もうひとつの「きっかけ」は、いわゆる「一票の格差」問題である。これは個々の選挙区の定数を変更を迫るものだったわけだが、それとのからみでも選挙制度変更が議論された。

 絶対的に見れば少数でも、比較多数であれば政権を維持可能な小選挙区制は自民党にとっては夢のようなものだったが、一方で野党の反対も強く、実現は困難だった。
 ただし、しつこく宣伝を繰り返すことで、例えば「連合」(労働ナショナルセンター)が「二大政党制」を打ち出し、その一環として小選挙区導入の方向に動くなど、国内の空気は徐々に変化していった。ただ、この「二大政党制」は連合が当初想定しただろう形には全くならなかったわけだが(わかってやっていたとすれば、すごいが)。

 こう、私が主張したところで説得力がない可能性があるので、新聞記事を引こう。朝日新聞の1989年1月18日から、である。いうまでもなく、冷戦はまだ象徴的には終結していない。「衆院小選挙区比例代表制、自民幹事長が積極論」とする記事だ。 

 自民党の安倍幹事長は17日午後、日本記者クラブで講演し、竹下首相が掲げる「政治改革」の柱のひとつである選挙制度の見直しについて「衆院は小選挙区制度に比例代表制を加味したものがいいのではないか」と述べ、「小選挙区比例代表制」の導入に積極的な姿勢を示した。小選挙区制度については過去に何度か浮上しながら、「自民党に有利だ」とする野党などの強い反対で具体化しないできたが、比例代表制と組み合わせた制度には、最近、野党や労働界の一部にも支持する声が出ており、「政治改革」の中で焦点となりそうだ。
安倍氏は小選挙区比例代表制の長所として(1)政党は選挙区ごとに候補者を整理することができ、政党中心の選挙ができる(2)各政党とも政権獲得の可能性が高まることから、政策面などで現実的対応をするようになる、などの理由をあげ、「かつて、鳩山内閣や田中内閣でも取りあげられたが、(自民党に)政治改革委員会ができたので、もう一度取り組みたい」と述べた。
 小選挙区比例代表制は、議員定数の一部を「定数1」の小選挙区に当て、残る議席は政党別の得票率に応じて割り振る。西独などで実施されており、大政党に有利な小選挙区制に比べ、少数政党も当選者を出せ、死票を防ぐ長所があると言われる。

  実は、最後の「小選挙区比例代表制は、議員定数の一部を「定数1」の小選挙区に当て、残る議席は政党別の得票率に応じて割り振る。西独などで実施されており、大政党に有利な小選挙区制に比べ、少数政党も当選者を出せ、死票を防ぐ長所があると言われる」という部分にはインチキがあるのだが(というより、ほとんどデマである)、自民党の主張を、朝日の記者がそのまま書いたものだろう。このあたりの「小選挙区比例代表制」導入にまつわるインチキについては稿を改めよう。

 しかし、重要なのは、この日付がベルリンの壁崩壊よりも、もちろんマルタ会談よりも前だということである。小選挙区制と、それにともなう二大政党制計画は、冷戦終結以前から検討されていたものなのである。

 そもそも、国際環境が変わったから、国内の選挙制度を変えるなどという(岸井氏が言うような)話には、誰もがおかしいと思うはずだ。

 
 以上、3点の「歪曲」について、私がより正確な見通しを提供した。

 しかし、この類の歴史の歪曲は岸井氏に限ったことではない。二大政党制でないと、政権交代はないとか、保守二政党が当たり前だといった類の、全くもって世界的には通用しない言説が日本だけで通用しているのだ。それも、国外の事情がよくわからないという大きな理由を背景にして。彼らの撒き散らしている言説で、どれだけ日本の政治経済社会が歪められているか知らない。

 こういった言説をするものに、彼らが今もっているような地位を与えてはならない。ますます、我々が幻想の中で過ごすことにしかならない。

 その状況を改善するために、現在、最も必要なのは、社民主義政党たちの躍進である。逆に言えば、仮に今度の選挙でも彼らがきちんとした地位を占めることができないのならば、日本の将来は全くもって暗く、現在のように、世界の中での「夜郎自大路線」を突き進むことになるだろう。

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2009.07.22

文科省などが主導するグローバル30とはなにか(11, まとめ・結論編)
MEXT's 'Global 30', What is this? (11)

 10回にわたって述べてきたことの要点を箇条書きで述べよう。

・大学経営からみれば、基本的に「グローバル30」に採択されることは割に合わない
・留学生30万人計画によって、留学生のうち2-3万人が国内で就職することが見込まれる(現在1万人ほど)
・この数字は、当面の「少子化」問題をある程度打ち消すことができるものだ
・採択された大学は、5年間の補助金支給期間終了後も10年目まで義務を負うが、そのひとつは留学生の数の増大であり、大学によって1,000人-2,300人の増加がノルマである
・これに伴い、多くの大学は、もし従来型定員を縮小させなければ、校舎増設などの大規模投資が必要になる
・一部の職員に英語能力が求められる可能性がある
・グローバル30の「英語コース」で補助金を使って雇用する教員は非常勤に限られる
・今後常勤で採用される教員は、英語による講義とは関係なくとも、英語による教授能力や、1年以上の国外留学経験が求められる可能性がある
・同様に、大学教員を目指す大学院生が留学経験を必要と感じる傾向がよりはっきりする可能性がある
・いわゆるリストラクチャリングのテコとして「グローバル30」が使われる可能性がある
・「グローバル30」は、中教審や教育再生会議などで慎重な検討を経たものというよりは、経済財政諮問会議や一部文部官僚から天下り式に降ってきたものと考えた方がより正確である()
・「グローバル30」などにはいくつかの思惑がある(第6回参照)
・「グローバル30」などにはいくつかの混乱が予想される(第7回参照)
・留学生30万人計画や、「グローバル30」で個々の大学に課せられる留学生数増大ノルマは決して達成が易しいものではない。
・学部段階で英語による教授をかなり増やす(目標30%)というのは、単に困難であるだけでなく、不必要・有害である
・その根拠付けとなっている(おそらく)独仏の大学だが、少なくともドイツでは「グローバル30」が想定するようなことは一般的ではない

 あまり重要でないように思われるかもしれないが、()のことは重要だ。例によって、ここでも民主主義的な何かによって、というよりは、一部の勢力/人間の思惑から決められているのである。

 留学生30万人計画では、上に書いたように、留学生のうち2-3万人が国内で就職されることが見込まれる。彼らは定住者となるだろうから(非定住者でも良いが)、今後、毎年それだけの人数の在留外国人がより増えてゆくわけである(もっとも、帰化してゆく場合もあるだろう)。

 現在、外国人登録者数は毎年5-8万人増加しており、現在トータルで220万人ほど(2008年)、永住者も毎年5万人ほど増加しており、現在90万人ほどである。(法務省入国管理局統計参照;http://www.immi-moj.go.jp/toukei/index.html)

 留学生30万人計画に従えば、10年間で20-30万人の永住者が増えることになる(もっとも、帰国するなど移住する人もいるだろうし、一方では、家族を呼ぶ人もいるだろう)。30年間では(つまり1世代で)100万人に達しようかという人数だ。これは、かなりの数である。

 しかし、こうしたことに対して国内の精神的・物理的準備あるいは議論が十分であるとはいえない。例えば、現在、ブラジル人に「帰国キップ」を渡して「帰ってもらって」いる地域でも、彼らを雇う企業は税金は払うものの(払わない企業も多いだろうが)、ツケは自治体とか地域コミュニティーに一方的に押し付けてきたという面は否定できないだろう。もちろん、当の外国人たちにもだ。

 そういったことを抜きにして、一種の「少子化対策」としてこうした留学生増加、「国際化」を叫ぶのには、どうもうさんくささを感じざるを得ない。

 少なくともいくつかの国で、あまり思慮なしに当面の問題を解決するために外国人を移入してきた結果、深刻な国内問題を発生させてきたという教訓から目をそむけるべきではないだろう。

 前にも言ったが、私は外国人排斥論者ではない。これもくどくなるが、数値目標を設けて何人を留学生として確保せよ、そこから何人を企業で雇う、といった手法に違和感を感じているのだ。私はむしろ、日本で学習したい人には日本に来てもらいたいし、あるいは国外で学習したい人には国外に行ってもらいたい。とりわけ、後者は、日本人が過度に内向きになっているように見える現在、やや尻を叩くぐらいでちょうどだ、ぐらいに思わないでもない。

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 さて、ここまでは、やや意見を異にする部分があるにせよ、それほど私の記述に違和感を感じなかった人も、以下の記述には反感を持つかもしれない。

 私は、日本の人口が多すぎると考えており、なるべくスムーズに(「自然に」)人口を減少させることが必要だと考えている。そうであってみれば、せっかく人口減少のとばぐちにある今、それに人為的に逆らうような政策をわざわざとることにも、強い違和感を感じるのだ。

 今後とも日本がある程度の物質的豊かさを享受しようと考えるなら、日本の人口が多すぎることは致命的である。現在、少子化、人口減少「問題」が叫ばれているので、ムードに流されている人も多いと思うが(多いというより、ほとんどの人がそうだと思うが)、1980年代ぐらいまでは日本の人口の多さこそが問題であり、少なさなど全く問題ではなかったのだ。そのころまでは、産児制限が真剣に議論されていたくらいなのである。

 留学生の話に即せば、ある人が日本にいるか、別の国にいるか、は世界的に見れば無論意味がないが、とりあえず世界政府といったものが存在しない以上、日本国でできることはすべきである。

 日本人の多くも思っているはずだ。世界の人口は増えすぎだということを。しかし日本もまた増えすぎてしまっているのだ。増えたのが過去だったので、現在の状況が増えすぎの結果であるということを忘れているに過ぎない。
 現に、(米を食べなくなっているという事情があるにせよ)食料の国内自給率はさんさんたる状況ではないか。これは農業の問題でもあるが、問題の裏側には増えすぎた日本人という理由があるのだ。

 もっとも、人口の増えすぎを指摘するのは私だけではない。すでに多くの人が指摘しているところだ。ひとつの参考になる書籍としてアラン・ワイズマンの『人類が消えた世界』(原著2007、邦訳2008、鬼澤忍訳、早川書房)をあげておく。

 子供をたくさん作ることこそが後の世代に責任を負うことだ、という考えはもはや見直されなければならない。

 上のような根本的な理由から、まさに目先の利益のために人材(人間)を輸入しようという発想にはうさんくささを感じてしょうがないのだ。

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 議論の分かれる話は横においておく。

 さて、最近買った週刊誌の裏表紙をなにげなく見てみると、ある大学の広告がカラーで載っている。
 ちなみに、その週刊誌は、新聞社系で、受験関係の記事がよく載るものだ。(フォントサイズの関係は広告を再現したもの)

平成21年度 文部科学省
国際化拠点整備事業

**大学は 国際化拠点大学
(グローバル30)に選定されました

 ああ、やっぱりな、と思わざるを得なかった。「6 思惑編」で書いたが、大学の一部からは、「グローバル30」を単なる(お上のお墨付き)マークか何かのようにとらえ、それを(大学関係者にも、受験生にも何がなんだか良く分からないが)学生獲得の護符にしようという気配が濃厚に感じられていたからだ。

 人が悪いと思ったが、念のためにその広告に記載されていた**大学の電話番号に問い合わせたが、そこでは「グローバル30」については不明だとされ、次いで、学内のわかるところ、というところに電話を転送されたが、そこでも必ずしもグローバル30を正確に理解しているとは言いがたい対応だった。まあ、そんなものだろう。

 こういった、マークによる誘導、というのは経済産業省などが得意とする手だが、文部科学省もより本格的に使い始めたということだろう。もっとも、すでに、「大学評価基準」とかいったマークはすでにあるわけだが。一部の大学は、それがあれば受験生が集まると思っているのか、「ホームページ」(Webサイトの頭のところという意味で)にナニナニに認定されました、とわざわざのせているぐらいだ。

 かつて、日本の企業でISO獲得騒動もあったわけだし(日本からの出願がかなりの部分を占めたと聞く)、大学とはいえ、やはり日本の法人だから、こうしたマークに弱いという点も否めないだろう。それに、マークの意味はよく分からないが、あそこが獲得したのだからウチも、とくる。

 以前書いたように、グローバル30は、申請の受付期間が極めて短かった。これだけ大変なオブリゲーションを課されるわけだから、大学経営陣もさぞかし応募するか、しないか懊悩したと推測されるが、ひょっとするともしかして、あまりしなかったかもしれない。

 彼らが、単に、補助金と護符がもらえるから、とか、あそこがやりそうなのでウチも、といった安易な理由で応募した・・・ということではないことを期待したい。

 了

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