2009.07.09

文科省などが主導するグローバル30とはなにか(7, 混乱編)
MEXT's 'Global 30', What is this? (7)

 このシリーズのほぼ終結部にあたるこの「混乱編」では、グローバル30や留学生30万人計画の予想される問題点を指摘することにする。

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このシリーズ全体の目次(第1回)

混乱1;日本語の講義がかなり減少する

 教育再生会議などで語られていた大学における英語の授業の目標比率は30%である。当たり前だが、「英語で講義を行う」ということは「日本語で講義を行わない」ということを意味している。
 現在の日本語の講義の42%分が英語で新たに開講され、日本語の講義はそのままなら、日本語を使う学生(典型的には日本で生まれ育った学生)へのサービス低下は生じない。しかし、そんなことは誰も予想していないだろう。確実に日本語の講義は閉講されるか、英語での講義に転換を余儀なくされる。

 混乱1';講義がわからない学生が激増する、または、講義のレベルが著しく低下する
 現在の高校3年生、あるいは、それが少したった大学1年生の(あるいは大学2年生でもいいが)英語の理解力はかなり限定的だ。
 確かに、2つの事情で、高校3年時点での英語に関する状況は極めてよくなっている。ひとつは、英語圏で一定の月日を過ごした帰国子女が増加しているからである。また、数10年前と比較するなら、英語への接触の機会は非常に多い。
 しかし、それにもかかわらず、先に述べたように、多くの人の能力は限られている。
 その理由は、外国語に接する量があまりにも不足しているからである。ここは外国語教育について述べる場ではないので、彼らに、現在の日本語で提供されている講義サービスと同等の内容を、英語による講義で置き換えることはほとんど不可能―というより、はっきり無理だと言うにとどめよう
 もしかすると、今回のグローバル30で選ばれた大学に入学するような学生なら可能だ、という誤解があるかもしれないが、現場を知る教員からすれば、一部はそうであっても、多数は決して英語による同等の理解というのは不可能であることを理解しているはずだ。

 混乱1'';不満がうずまく
 「30万人計画」が達成されたとしても、大多数の学生は日本出身なのだ。どのようなサービスを提供するかは、よほど慎重に考えなければいけない話だろう。2つの、内容は同じだが使用言語の異なる講義があり、1つは9人の需要があり、1つは1人の需要がある。どちらを選択すべきかは「民間の発想」なら自明だ。
 「日本の出版界」とかが、「日本の読者」を「国際化」するために、自分の会社の出版物の30%を英語にするという政府などの方針が出されたときに、それに従う出版社というのは全くもって考えにくい。
 いや、もうちょっと政府などの考え方はふるっていて、日本の出版物の30%が英語だと、日本で過ごしたいという人がわんさと(それこそ、ゴマンと)増えるというのだ。まあ、過ごしやすくはなるだろうが、そんなに日本で英語で出版されている本を読むために人が来るだろうか?
 それより、単に日本国民の多くが本に対する需要を減らすだけだろう。
 私が学生であったとして、英語の講義だらけであったら、困惑するだろう。日本語で講義してくれたら、どれだけわかりやすいかしらないのに、と。「学生による授業評価」で、「授業がわかりにくい」という評価が激増しそうだ。

 混乱2;入り口
 同じ大学の学生で、「在来型日本出身学生」と「留学生30万人計画型国外出身学生」の間で、軋轢が生じることはほとんど不可避だ。

 最初に大きな問題として立ちふさがるのが、(留学生の)質と量を両立させることは並大抵ではないということだ。これが工業製品ということであれば、それも可能だが、人間というのはそうはいかない。ということは、日本で留学生を増やそうとするなら、ほぼ必然的に平均的な質は低下するということになる。むろん、努力でなんとかなる部分もあるし、例えば、中国以外の新興国から留学生を受け入れる、とかいったことは有望な考え方だ。しかし一方で、中教審の議論でも、英国などと競争するのは無理だ、との声もあるほどである。
 今回のグローバル30に採択された大学は、その内実はともかく、世間的には「一流大学」として通っている大学ばかりだし、世界的に見ても「超一流大学」と見られる大学も含まれている。
 しかし、中教審の議論を見ると、留学生の質をどう確保するか、に焦点が当てられていないわけではないものの、結果的に、量に焦点が当てられているという感想を否めず、このあたりのアンバランスをどうするのかということは真剣に検討されていない。

 例えば、東大をとってみると、「東大を卒業する」というのはそれだけでひとつのステータスだ。しかし、このことは実は、「東大に(卒業ではなく)入学することができた」ということとほとんど意味が違わないというのが日本の「伝統的な」考え方なのだ。
 しかし、「グローバル30」によれば、「東大に入学することができた」などという方(ほう)は、留学生にとってはかなりハードルの低いものになる。彼らは、日本国外での簡単な審査でも日本の一流大学に入学することができるのだ

 日本政府の海外学生獲得作戦は、「『留学生30万人計画』の骨子」とりまとめの考え方に基づく具体的方策の検討(とりまとめ)の「2.留学生を引き付けるような魅力ある大学づくりと受入れ体制」 にある。(http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo4/houkoku/attach/1249706.htm)

 そこでは、見逃すことのできない文句がある。

他国の大学等では、個々の留学生の受入れについて判断できる者により、留学フェアの場など現地で面接等を行い、合否を事実上決定しているものもあるが、我が国の大学等についても、このような海外におけるリクルーティングに対する積極性が求められる。

 この「積極性」とやらについては、さすがに中教審でも問題にされたが(留学生特別委員会第7回)、ほとんど全く文科省の書き方に変化はない。
 いずれにせよ、なんと、日本の「一流大学」に「留学フェア」などでの「面接等」で合格が決まってしまうというのである。現在の大学の「序列」を考えると途方もない考え方だ。

 中国にも一流大学はあるし、世界で東大が「最高の」超一流大学である、というわけでもない。それに、中国国内でどんどん大学が整備されてきている。そのことをあわせて考えると、今後は相当、入学生のレベルが低下してゆくことが避けられそうにない。

 しかし、現在のように受け入れた学生は大方卒業させ、学位を授けるとしよう。そうであれば、既存タイプの学生が不満、あるいは被差別感を抱くことは十分予想されるところだ。我々はあんなに苦労して東大に入学したのに、彼らはそうではない、しかし、同じ扱いで同じ「東大卒」だ、と。

 もちろん、日本の大学がもっと一定のレベルに達しない学生をガシガシ落としてゆくなどを通じて「質保障」をしっかりするなどのスタイルにし、一方では、例えば東大が日本国内の学生も、留学生と同じレベルのところまでたくさんとる、といった「イクォール・フィッティング」をするなら話は別だ(そして、それは、ひとつの考え方だ)。
 しかし、それは既存の大学の序列を破壊する行為にもなりうる。
 今回採択された大学に、そこまでの覚悟があるだろうか。

 とりわけ問題なのが、英語コースだ。英語コースが、留学生だけに限られているのではなく、日本出身の学生にも開放されている場合、どういったことになるだろうか(Q&A追補版では、開放は可能になっている)。社会実験としては興味のあるものだが・・・

 混乱3;入管
 留学生30万人計画を達成するために必要な18万人という人たちを、全く中国からの「供給」に頼らずに「調達」できると考えている人はよほどの楽天家だろう。
 しかし、この中国からの留学生というのは、彼らが望めば日本に来ることができる、というようにはなっていない。なぜなら、入国審査の強弱で、彼らは入国を認められたり、拒否されたりするからだ。過去に、「留学生による犯罪」が問題になった時期があり、その後、審査が厳しくなった時期もあった。
 ということは、今後、日本への留学生を増やそうとしても、入管がネックになることは十分考えられ、従って、中教審であるだとか、日本経団連がこれを問題にしたわけである。
 留学生の「質」というのは、限界的にどんどん低下することは明らかなので、例えば、中国からの留学生を今の2倍に増やそうとしたときに、審査される学生が2倍で済むということにはまずならない。もっとたくさんの審査が必要だ
 どのぐらい、文科省とか大学はこのあたりの事情を真剣に考えているだろうか。

 混乱4;出口
 90年代に、文科省が大学院の強化、を打ち出したときにも、さしたる出口戦略が見られたとはいえなかかったし、今もそうだ。修士課程で就職できた人はまだよかったが、博士課程を出てもなかなか就職できない人たちを大量に「生んで」しまった。その責任は、文科省(当時の文部省)と、観念論を振りかざすその一部の仲間たちにある。
 文科系についていえば、修士や博士を出た人なら、かなり専門的な知識を持っているので、企業も喜んで高待遇で採用するはずだった。はじめから、ほとんどの人には、そんなうまい話があるとは思えなかったろうが、それを国策として推進したのが文科省である。そのため、今では、(言葉は悪いが)三流大学にすら博士課程まである始末だ。「一流大学」ですら就職に四苦八苦しているのに、どうするつもりなのか。
 前にも書いたが、今回の議論では(外国人を国内に呼び込もうとする一方で)院生に国外への留学さえ要求している。では、いったい、国内の大学院というのはなんなのか。

 人の運命をもてあそぶのもいい加減にしてほしい。

 それと同じことが、今回の「30万人計画」で再現されないという保障がどこにあるのか。今回は留学生の就職問題だ(それに自身についても、もっと検討されるべき話だろう)。相変わらず、財界頼みで、「お願い」を繰り返している印象は否めない。しかし、「前回の」(しかし清算されていない)失敗である大学院強化策すら、結局大量の「職業ミスマッチ」を残したままではないか。
 一方、留学生が引っ張りだこになる、という事態もまた、やや慎重に考えておかねばならないだろう。
 責任をとれないのなら、はじめから、このような計画経済的政策はやらないべきなのだ。

 混乱5;大学再編
 前にも書いたが、現在の大学がそのままであってよい、とは私は考えていない。しかし、「留学生30万人計画」をテコとするこの大騒ぎには、どことなくうさんくささがただよう(シリーズ4回目教職員、大学院生への影響編参照)。
 前にも書いたが、これによって、新規教員採用を延期して収支を改善しようだとかいったことのほかに、次のようなことがある。

 大学の総在籍者の増加。18歳人口が低下しようという現在、信じられないかもしれないが、そう動いている大学は存在する。現在の定員をそのままに、留学生を増やそうというのである。ここには、留学生30万人計画が、18歳人口低下に対応して出てきたアイディアだということはすっかり忘れられている。もし、覚えていれば、従来型定員を減少させるべきだ。
 そうでないから、新しい土地を取得して、新しい建物(留学生宿舎含む)をつくるといった、バブル期さながらの右肩上がり妄想が見られる。これは、私の妄想ではなく、現実にある話だ。

 人文社会系のパージ。財界が要求している人材は理工系である。従って、人文社会系の人材はむしろ無駄である。私も、経済系の学生定員は多すぎると思う。しかし、だからといって、人文社会系が不要ということにはならないとも考えている。まあ、これもここで語るべきことではない。
 しかし、大学という場所を、文科省であるだとか、大学経営陣とかは、自分たちの好きにできる「教育の場」として捉えすぎだ。そうした側面があるにせよ、カネを払っているのは学生の方なのだ。彼らに「学習の場」を提供するのが本来のあり方のはずだ。
 従って、どのようなジャンルを学習したいのか、は究極的には学生に任されるべきである。
 各大学ができるのは、そのような意思を汲み取った大学再編をすることでしかなく、文科省が理工系を強化せよ、と間接的に誘導するからそうする、というのは邪な発想である。

 以上のようなことは、文科省や中教審の委員会、大学経営陣にははじめから十分予想されていたはずだ。

 しかし、崖に向かって突っ走り、そのままジャンプしてしまった―谷に向かって。

 もうひとつの「混乱」については、次に書こう。

つづく。

前の記事;「思惑編」

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2009.07.07

文科省などが主導するグローバル30とはなにか(6, 思惑編)
MEXT's 'Global 30', What is this? (6)

 6回目。このグローバル30作戦、あるいは「上位の」留学生30万人計画は、どのような思惑によって裏付けされているのだろうか。

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このシリーズ全体の目次(第1回)

 主に3つである。
 ひとつは、留学生である彼らを将来の労働者と考える見方である。彼らを新たな永続的消費者であると見なす見解も似たようなものだと判断されるだろう。
 もうひとつは、彼らは、日本文化の友好使節となるのであり、例えば国家安全保障にも役立つ、とするものだ。いわば、ソフト・パワー的な発想である。可能なら、彼らには単に日本人に精神的刺激を与えるということだけではなく、日本人との国際ネットワークを築くことも期待されている。
 3つ目は、これを機に、現在の日本の大学をとりあえず破壊したい、とする考え方である。英語だとか、留学生だとかはどうでもよいが、とにかく破壊すると、そのうちに(今のところイメージはわかないが)すばらしい大学に再生する、という考え方だ。
 
 あえていえば、その他に、単に「国際化はすばらしい」とか「国際交流ってステキッ」とか、「英語はなんといっても国際語だ」といったような、どうも、頭のあたりになにかが咲いていて、そこにハチかアブがたかっていそうな考え方もある。
 もうひとつあるとすれば、なんだかよくわからんが、お上の言っていることだから間違いないに違いない、とか、彼らが「認証」する「マーク」をお守りにしておこうといった、単なるコンフォーミズムだろう。彼らは一方では「小さな政府論」とか「官僚悪玉論」とかを唱えているかもしれない。

 最後のの2つは論評に値しないが、問題なのは最初の2つである。3番目については後で触れる。この2つの考え方の相性が悪いにもかかわらず、同じ旗を振っているので問題なのだ。
 
 最初の考え方からいえば、留学生は日本国内にとどまって就職してもらわなければもらわないと困るのである。しかし、後の考え方からは本国に帰って日本の素晴らしさを吹聴してもらわなければならない。
 最初の考え方からいえば、日本語ができることは必須である。しかし、後の考え方からいえば、別にどっちでもよい。自国の言葉で、日本のよさについて語ってくれればよいのだ。

 こういった考え方の差があるので、同じことを語っているようで、異なるものを実際には考えているのである。
 
 それが端的に現れるのが短期留学についての考え方である。明確に言えば、最初の考え方からすれば、国が短期留学について何らかのカネを使うとすると、それは無駄なものに他ならない。払った法人税などを返せ、というわけだ。払ってないカイシャも多いけど。
 
 例えば、日本経団連の「競争力人材の育成と確保に向けて」という2009年4月14日付けの文書がある。(http://www.keidanren.or.jp/japanese/policy/2009/036/index.html)ここでは、短期留学については見るところ、全く言及がない。
 同じく、英語による講義についてもこうだ。

 政府の「留学生 30 万人計画」で掲げている国際化の拠点となる 30 大学の選定(「グローバル 30」)と英語の授業で学位が取得できる課程の増加は、これまで日本語がネックとなり留学を考えて来なかった潜在的な外国人学生をわが国に惹きつけるという点で有意義な取り組みである。ただし、留学生政策は、外国人学生に日本語を学び、また日本文化にも触れてもらうことで日本の良き理解者を増やすことも重要な目的であることから、「グローバル 30」の大学では留学生に対する日本語等の教育をこれまで以上に充実させ、その成果を「グローバル 30」事業の評価対象に加えることが必要である。

 「理解者」といったレトリックが使われているが、その実、いたるところで日本経団連の文書は企業で雇われた際の日本語能力の重要性を強調しているのである。結局、英語もよいが、日本語が重要であるとクギをさしているわけだ。「有意義な取り組み」という言葉に冷ややかさを感じないだろうか。
 
 日本経団連が留学生に関し大学に期待していることは、もちろんしっかり学習した「優れた人材」を供給することもある。しかし、文章を極めて率直に読むとこうなる。ひとつは、大量の学生を日本にリクルートしてくることであり、もうひとつは、大量にリクルートした学生のうち、「不良学生」をはじき出してゆき、最終的には残った「優良学生」を企業に供給することである。この文章にはないが、もうひとつ、大学は、留学生に「日本文化」を学ばせ、どんな理不尽な命令にも(あるいは不法行為でも)上(ウエ)の命令とあれば従順に従うといったタイプの人間に彼らを改造することも期待されているのだ。
 もちろん、これもひとつの首尾一貫した立派な考え方だ。企業の利益を考えるのなら、そうなるかもしれない。
 
 2番目の考え方も、「国益」という観点からは否定はできない。日本に留学した学生は、日本への印象を良くするようだ。 日本学生支援機構の「平成17年度  私費外国人留学生生活実態調査」(http://www.jasso.go.jp/scholarship/ryujchosa17.html)参照。
 問題は、カネや労力の点で、やや問題があるということだ。「国益」といった考えから、それに見合う収穫は得られるのか明らかではない。
 それに、例えば諸外国では、サマーコースを含む語学学習を、大学ではない語学専門機関に「アウトソース」することが頻繁に行われているが、例えば「グローバル30」では、大学丸がかえで語学教育をしなければならないかのようだ。日本語学校を利用するとかいった発想はない。
 「日本文化」といった言葉も、おそらく1番目の考え方と2番目の考え方ではかなり異なっており、前者は正確には「日本の企業文化」とか、ありていにいえば「他人との付き合い方」「しきたり」のことであるのに対し、後者は普通の意味での日本の文化のことだろう。
 
 そういった意味では、「グローバル30」に取り上げられた内容は、文科省がこうした2つの勢力の考え方を取り入れながら作成したものとも考えられる。というのは、双方にとってそんなに問題ある内容にはなっていないからだ。ただし、どちらかといえば後者のほうに分が悪いだろう。
 
 この2つは、いわば何を「国益」とするかの見解の相違だ。
 
 しかし問題なのは、実は、(大学という小さな組織の問題に過ぎない)3番目の見解である。例えばこうだ。

 極端に言うと、留学生30万人計画をもって大学を初めとする教育機関の中身をすべて変えるきっかけになると思う。つまり、教育の仕方や大学の運営の仕方から、これが一つの大きなきっかけになって、改革が始まるのではないかと思っている。ですから、外国人のためにだけということでなくて、日本人の学生のためにも、授業やコンテンツのレベルをいかに高めるかということを含めて、今回を良い機会にしたいと思う。(中教審留学生特別委員会 第8回)

 なぜ問題なのかというと、実は現在のところ、「先進的」な大学(早稲田であることはすぐわかるが)でも、なにやら確たるヴィジョンがあってやっているわけではなさそうだということなのだ。
 次の会話を見てみよう。

 中曽根プランを実現するに当たっては、一般会計予算だけでも5倍になっている。特別会計を入れると恐らく七、八倍にはなっているだろう。留学生の数を10 倍にするのにこれだけかかっている。宿舎については実際10倍近く手当てされているだろう。こういった予算措置があまり今後期待できないとすれば、いろいろな工夫をしていかなければいけないというのがさきほど発言の趣旨だと思うのだが、特定の大学で、例えば留学生数を2,700人から8,000人にする場合、それにかける費用はどうするとお考えか。

 それについても、理事会の中で若干議論が始まっているところだ。試算すると、相当大きなお金が必要だというようなことがわかっている。私立だと、資金源もそれほどいろいろなものがあるわけではないので、なるべく費用はかけずに、何とかしなければいけないが、これは非常に難しい。
しかし、8,000人にすることによって、今までの大学のすべてのやり方、教育から、あるいは事務組織から何からすべて変えなければいけないので、相当大きな変革になる。ある意味では、8,000名計画を大学改革の一つの大きなきっかけになるはずだ。いわゆる開かれた大学になるだろう。(中教審留学生特別委員会 第5回)

 統計学的にいえば「非常に難しい」というのは「ほぼできない」の言い換えである。ということは、この「先進的な大学」でも、8,000人留学生計画というのは現在のところ、絵に描いたモチだと自ら語っていることに他ならない。そこまで言わないにせよ、大きな鏡餅のはずが、単なる切り餅だった、ということぐらいは言えるだろう。
 
 しかし、それでも「大きな変革」になるのだからヨシ、としているようだ。その「大きな変革」というものがいかなるもので、それが達成された暁にはこうなる、それはこれほどすばらしいからやる、といった説明のしかたではなさそうだ。
 「30」万人計画同様、アドバルーン先にありきだ。しかも、13の不幸な大学たちでは、そのアドバルーンを「グローバル30」に採択されたためにおろすことができなくなってしまった。

 経営陣も努力はするだろうし、さらに、教職員はなおさら努力させられるだろうから、結果的によかった、となるかもしれないが、第1回でも書いたように、経営陣は「グローバル30」の認定第二弾もおそらくあったろうから、彼らは明らかに拙速だった。

 大学という組織を眺めてみて、私は問題がないとも思わないし、「カイカク」も必要なのかもしれないとも思う。しかし、私が彼らと異なるのは、「カイカク」と名前がつけばいかなるものでも良い/正しいという、妙な右肩上がり発想(あるいは進化主義)を持たないことだ。
 
 どうも、先の戦争で見せつけられたことだが、日本人は物事について「こうなればこうなる」ということを筋道立てて考えることが苦手なのではないかと思わざるを得ない。それより、スローガンとか、乾坤一擲の突撃とか、手近な成功体験などのヒューリスティックとかいったものに頼りがちなのではないかと思う。

 大学のような、えらい経済学者や経営学者の方々がいるところでこうだ、というのは、日本の謎の一つだ。

つづく。

シリーズづづきの記事;「7, 混乱編」
シリーズ前の記事;「5, 起源、経済財政諮問会議編」

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2009.07.05

文科省などが主導するグローバル30とはなにか(5, 起源、経済財政諮問会議編)
MEXT's 'Global 30', What is this? (5)

 私がこの「グローバル30」を研究し始めた際、公募要領に現れるような表面上の字句と共に、なぜこのようなアイディアを国家として実行に移すこと のなったのかを調査した。いまだもってそれは明白ではないが、経緯は大体明らかになった。そこには、民主主義とか、冷静さとか、合理性とかいった言葉はな かった。

前の記事:「4, 教職員・大学院生への影響編」
 シリーズ全部を一気に表示したい場合は、下・右の「カテゴリー」の「グローバル30(国際化拠点大学)」をクリックすればOK。
このシリーズ全体の目次(第1回)

 アイディアを究明するための最初の取っ掛かりとなったのは、「公募要領」のP.2だった。「「経済財政改革の基本方針2008」(平成20年6月27日閣議決定)や「『留学生30万人計画』骨子(平成20年7月29日文部科学省・外務省・法務省・厚生労働省・経済産業省・国土交通省策定)」等を踏まえ、」との一文である。

 しかし、もちろんこれにはベースがあるはずなので、関連するところの中教審のワーキング・グループ、委員会、官邸に設置された教育再生委員会、教育再生懇談会の議事録をひととおり眺めた。それによって、この考え方を支えるものを見つけ出すことができるかもしれない、と考えたのである。 

 残念ながら、それは徒労に終わった。「グローバル30」はほとんど、そういった会議とは無関係に天下り式に降ってきたものだったのである。

 上の赤で書いた2つの文書に至る流れを要約して書くことにする。ただし、必ずしも時間順ではない。

 1) 教育再生会議では、実はこうした(グローバル30の英語コースのような)話はほとんど全く議論されていなかったのだが、第7回(2007年4月23日)会議の際に、突如、経済財政諮問会議、総合科学技術会議、イノベーション25戦略会議、アジア・ゲートウェイ戦略会議、規制改革会議の資料が提出され、関連者が会議に現れる。

 経済財政諮問会議;伊藤隆敏氏、総合開発会議;薬師寺泰蔵氏、イノベーション25戦略会議;黒川清氏、アジア・ゲートウェイ戦略会議;伊藤元重氏、規制改革会議;八田達夫氏。 われらがミスターKも3人いらっしゃいますな。
 そこで、薬師寺氏から、「入試、内外無差別で、英語で実施」「教員の外国人比率を5年で倍増する」「一部の授業は英語にして多くの留学生に魅力ある大学にする。」との発言が飛び出す。
 1-6回では、ほとんど議論らしい議論はなく、数人の委員が英語や国際化について単発的に発言していたのみで、体系だったものとしては野依良治座長が大学院教員(学部ではなく)の国際公募に6回目で触れていたぐらいだった。

 というわけで、伊藤元重氏から「もう皆さんには釈迦に説法でございますけれども、グローバルな視点から、大学教育を考えない国はもうないわけです」といわれても、「美しい国」などについてヨタ話を繰り広げていた教育再生会議のメンバーは、一部(3人、野依氏、中嶋嶺雄氏、川勝平太氏)を除いて全く「国際」とか「英語」とかいったことを考えていなかったので、寝耳に水の話だったろう。伊藤氏は、おそらく、議事録を読んでおらず、一緒に加わったほかのメンバーの見解が極めて自分の見解と似ていたので、再生会議で国際化といった話が取り上げられたものと錯覚したのだ。

2) 教育再生会議の第二次報告(2007年6月1日)に次のような文句が入る。(一部を収録)

「提言2 国際化・多様化を通じ、世界から優秀な学生が集まる大学にする (9月入学の大幅促進、教員の国際公募、英語による授業、国家戦略としての留学生政策、企業・社会との連携)」
 「大学・大学院は、世界水準の卓越した教育研究拠点を形成するため、教員の国際公募、任期制の大幅な拡大などにより、世界トップレベルの教員の採用を促進する。 」
 「大学は、外国人教員比率の増や、女性教員の採用に努める。 」
 「大学は、英語による授業や、英語のみで卒業可能な体系的教育プログラムを拡大する。」

 いやはや、ほとんど全く議論していないことを「報告」として書くことができる神経には脱帽だ。ネットで拾ってきた文字列を「自分のレポート」として堂々と発表できる大学生も脱帽するに違いない。

 後になるが、12月25日の第三次報告には「大学における英語教育を大幅に改善するとともに、外国人教員の採用も進め、英語による授業の大幅増加を目指す。(当面、全授業の30%は英語での授業を目指す)」とある。「30」という数字の源泉はここだろうか?

3) 2007年6月19日の「経済財政改革の基本方針2007」(骨太の方針2007)に、次のような記述が入る。(一部略)

国際化・多様化を通じた大学改革
  教員の国際公募、外国人教員比率の増、英語による授業、国家戦略としての留学生政策を平成 20 年度から推進する。
  文部科学省は、「大学グローバル化プラン」(仮称)を平成 19 年内に策定し、アジアを含めた国際的な大学間の相互連携プログラムを促進する(単位互換、ダブル・ディグリー等)。また、各大学等による国際化に関する評価の充実を平成 20 年度に図る。
  平成 20 年度から、現地での募集・選考体制の強化、渡日前の入学許可、奨学金支給決定を行い、留学生受入れ拡大を図る。日本人学生の短期留学等の機会を拡充する。

4) 2008年の国会施政方針演説として福田康夫首相が「留学生30万人計画」を打ち出す。(2008年1月18日)
http://www.kantei.go.jp/jp/hukudaspeech/2008/01/18housin.html

 一橋大学の横田雅弘氏のグループが、将来の留学生の数などについて委託研究報告を出したのが2007年10月だから、「30万人計画」は福田氏オリジナルなものでは(たぶん)ないだろう。

5) 2007年12月25日から、中教審の大学分科会で「制度・教育部会 留学生ワーキンググループ」が開催される。しかし、これは2回しか開催されず、委員の陣容を増強して2008年2月22日から「留学生特別委員会」として再スタートする。
 しかし、これらにおいても、話の主たる内容はいかに(主にアジアから)留学生を集めて、教育し、「出口」を整備するかであって、大学(学部)における英語コースの設置についてはほとんど全く語られることはなく、極めて散発的な発話に終始した。

6) 2008年5月9日、経済財政諮問会議に「教育の大胆な国際化を」というペーパーが提示される。(http://www.keizai-shimon.go.jp/minutes/2008/0509/item5.pdf)。冒頭の方に「グローバル30」という言葉が出てくる。もちろん、提出したのは伊藤隆敏氏、丹羽宇一郎氏、御手洗冨士夫氏、八代尚宏氏の「民間」「議員」の方々。ここでは、学部で英語教育をするかどうかについてはやや不明瞭なところがあるが、大体において現在の「グローバル30」の姿が示される。

7) 2008年5月12日。諮問会議から3日後。中教審留学生特別委員会第6回。この日は、約1年前の「教育再生会議」第7回と酷似している。ここで、実質初めて、学部での英語による教育が議題に取り上げられる。第5回までと異なり、ものすごくたくさんの資料を渡される。(http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo4/020/gijiroku/08051408.htm)ネットで見ることのできる資料だけで24種類である。会議の時間は2時間。資料についての説明があった後、議論に入るが、少ない時間と多い論点で、一体どのような議論が可能だというのか?

 (ついでに言っておくと、この数日後、5月16日に、教育再生懇談会では「合宿審議」という茶番劇が繰り広げられる)

 そこでの議論を引用しよう。これは、取捨選択したものというよりは、悉皆的なものである。長いと思ったら、飛ばしていただきたい。

英語で授業を行うのは良いが、4年間ずっと英語だけで終わっていいのかという、つまり何のために日本に来ているのかというところがある。もちろん英語で学位を取得できることは大事なことだと思うが、飛躍的に増大させる必要があるのかいうことと、入学時に英語の能力があれば十分対応できるような大学としての教育の仕組みを作ることには大いに賛成であるが、特に海外でのリクルーティングを考えたときに、なかなか大学独自では難しいところもあるので、4ページ目の1でリクルーティングという項目があるが、第2パラグラフの3行目で、例えば日本学生支援機構が実施する日本留学試験や日本語能力試験といった既存の試験を積極的に活用しようと言っているが、ある意味では矛盾しており、日本留学試験では英語はなく、日本語能力試験は日本語だけである。つまり、ここで書いていることでは日本語で教育を受けることを前提とした渡日前入試というふうになっており、英語で授業を行うということを考えるのであれば、その仕組みを考えないと困る。

 英語の授業を一番最初に始めたのは東京大学のグループであったが、一方では日本語のサポートはものすごく、もう大変な数の人をリクルートしボランティアとして活用し生活レベルの日本語を徹底的に教えていた。このことからすると、英語で学位を取れるようにするということとその書き分けは少しする必要はあるのではないか。

 先ほどの英語の件であるが、ここにも書いているように、学部は英語で実施しているところは少なく、大学院が多い。したがって、学部学生は原則として日本語教育を中心に教育するということで、ある程度の日本語能力を持った方をリクルートし日本文化の理解してもらい、一方、大学院のは英語による教育を促進するというふうに少し温度差をつけたらいかがかと思う。
ただし、学部学生も英語教育も必要であるので、漸増することは必要であるが、これに向けてはやはり教員のFDや外国人教員の増加が必要である。

 英語のコースを増やすことと、日本語を行わなくて良いということは同義ではない。全体のトーンとしては日本にいてもらう人をなるべく増やそうということであるので、日本語は最重要である。

 こういったコースが日本で生まれ育った学生にどういった影響を及ぼすか、といった話はないが、いかにも唐突な話を聞かされたという印象が伝わってこないだろうか。
 しかし、この話が冒頭の2つの文書につながってゆく。

 結局、この「グローバル30」の目玉である英語コースは、よく練られて誕生したもの、というよりは、自分たちだけでエリートを相互自認している人たちの間で作り上げられた妄想の産物と評する方が妥当だ。

 恐ろしいのは、こうした、「エリートを自認する人」であるだとか、(一般的だと称する)特殊な経済理論を信仰する人たちが集まると、彼らが客観的に見れば極端にばかげたことを、いかにも冷静な風で語っていても、それがばかげたものであると自覚できないことだ。これは、集団心理学ではよく指摘されることだが、「敵」を勝手に作り上げた状態での集団分極化の一例だろう。
 教育再生会議第7回の中嶋嶺雄氏(アキタ・インターナショナル・ユニヴァーシティ、日本語訳はなぜか「国際教養大学」)の言を引こう。

 今日は、実に画期的な会議だと本当に感銘しました。
 私も長い間大学に関係し、国立大学、国立大学協会にも関係してきたんですけれども、結局大学の中からの改革ができなかったということだと思います。
 そのために、きょう5つの団体及び野依座長の教育再生会議が期せずして同じ方向を目指して本格的な教育改革、大学・大学院改革の提言をされたということは、大変画期的なことでありまして、こんなことは今までなかったことだと思います。
  したがって、今の5つの団体の御提言と教育再生会議の提言を合わせて本格的な改革の具体的なプランをぜひスタートさせていただきたいと、以上です。 

 どうも、思慮のある人間が取り合わなかったから、自分が空想するような意味での「大学の中からの改革ができなかった」ということがわからない者も、お仲間を得ると、それだけで自分の意見の正しさが証明されたと思い込むらしい。特殊な、小さいサークルでの「みんなの意見は案外正しい」ですか?

 繰り返すが、「グローバル30」はよく練られて出てきた作戦ではない。

 このようなものに付き合わされる関係者(むろん、学生・留学生・家族含む)は大変である。

つづく。

後の記事「6. 思惑編」

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MEXT's 'Global 30', What is this? (4)