文科省などが主導するグローバル30とはなにか(7, 混乱編)
MEXT's 'Global 30', What is this? (7)
このシリーズのほぼ終結部にあたるこの「混乱編」では、グローバル30や留学生30万人計画の予想される問題点を指摘することにする。
シリーズ全部を一気に表示したい場合は、下・右の「カテゴリー」の「グローバル30(国際化拠点大学)」をクリックすればOK。
このシリーズ全体の目次(第1回)
混乱1;日本語の講義がかなり減少する
教育再生会議などで語られていた大学における英語の授業の目標比率は30%である。当たり前だが、「英語で講義を行う」ということは「日本語で講義を行わない」ということを意味している。
現在の日本語の講義の42%分が英語で新たに開講され、日本語の講義はそのままなら、日本語を使う学生(典型的には日本で生まれ育った学生)へのサービス低下は生じない。しかし、そんなことは誰も予想していないだろう。確実に日本語の講義は閉講されるか、英語での講義に転換を余儀なくされる。
混乱1';講義がわからない学生が激増する、または、講義のレベルが著しく低下する
現在の高校3年生、あるいは、それが少したった大学1年生の(あるいは大学2年生でもいいが)英語の理解力はかなり限定的だ。
確かに、2つの事情で、高校3年時点での英語に関する状況は極めてよくなっている。ひとつは、英語圏で一定の月日を過ごした帰国子女が増加しているからである。また、数10年前と比較するなら、英語への接触の機会は非常に多い。
しかし、それにもかかわらず、先に述べたように、多くの人の能力は限られている。
その理由は、外国語に接する量があまりにも不足しているからである。ここは外国語教育について述べる場ではないので、彼らに、現在の日本語で提供されている講義サービスと同等の内容を、英語による講義で置き換えることはほとんど不可能―というより、はっきり無理だと言うにとどめよう。
もしかすると、今回のグローバル30で選ばれた大学に入学するような学生なら可能だ、という誤解があるかもしれないが、現場を知る教員からすれば、一部はそうであっても、多数は決して英語による同等の理解というのは不可能であることを理解しているはずだ。
混乱1'';不満がうずまく
「30万人計画」が達成されたとしても、大多数の学生は日本出身なのだ。どのようなサービスを提供するかは、よほど慎重に考えなければいけない話だろう。2つの、内容は同じだが使用言語の異なる講義があり、1つは9人の需要があり、1つは1人の需要がある。どちらを選択すべきかは「民間の発想」なら自明だ。
「日本の出版界」とかが、「日本の読者」を「国際化」するために、自分の会社の出版物の30%を英語にするという政府などの方針が出されたときに、それに従う出版社というのは全くもって考えにくい。
いや、もうちょっと政府などの考え方はふるっていて、日本の出版物の30%が英語だと、日本で過ごしたいという人がわんさと(それこそ、ゴマンと)増えるというのだ。まあ、過ごしやすくはなるだろうが、そんなに日本で英語で出版されている本を読むために人が来るだろうか?
それより、単に日本国民の多くが本に対する需要を減らすだけだろう。
私が学生であったとして、英語の講義だらけであったら、困惑するだろう。日本語で講義してくれたら、どれだけわかりやすいかしらないのに、と。「学生による授業評価」で、「授業がわかりにくい」という評価が激増しそうだ。
混乱2;入り口
同じ大学の学生で、「在来型日本出身学生」と「留学生30万人計画型国外出身学生」の間で、軋轢が生じることはほとんど不可避だ。
最初に大きな問題として立ちふさがるのが、(留学生の)質と量を両立させることは並大抵ではないということだ。これが工業製品ということであれば、それも可能だが、人間というのはそうはいかない。ということは、日本で留学生を増やそうとするなら、ほぼ必然的に平均的な質は低下するということになる。むろん、努力でなんとかなる部分もあるし、例えば、中国以外の新興国から留学生を受け入れる、とかいったことは有望な考え方だ。しかし一方で、中教審の議論でも、英国などと競争するのは無理だ、との声もあるほどである。
今回のグローバル30に採択された大学は、その内実はともかく、世間的には「一流大学」として通っている大学ばかりだし、世界的に見ても「超一流大学」と見られる大学も含まれている。
しかし、中教審の議論を見ると、留学生の質をどう確保するか、に焦点が当てられていないわけではないものの、結果的に、量に焦点が当てられているという感想を否めず、このあたりのアンバランスをどうするのかということは真剣に検討されていない。
例えば、東大をとってみると、「東大を卒業する」というのはそれだけでひとつのステータスだ。しかし、このことは実は、「東大に(卒業ではなく)入学することができた」ということとほとんど意味が違わないというのが日本の「伝統的な」考え方なのだ。
しかし、「グローバル30」によれば、「東大に入学することができた」などという方(ほう)は、留学生にとってはかなりハードルの低いものになる。彼らは、日本国外での簡単な審査でも日本の一流大学に入学することができるのだ。
日本政府の海外学生獲得作戦は、「『留学生30万人計画』の骨子」とりまとめの考え方に基づく具体的方策の検討(とりまとめ)の「2.留学生を引き付けるような魅力ある大学づくりと受入れ体制」 にある。(http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo4/houkoku/attach/1249706.htm)
そこでは、見逃すことのできない文句がある。
他国の大学等では、個々の留学生の受入れについて判断できる者により、留学フェアの場など現地で面接等を行い、合否を事実上決定しているものもあるが、我が国の大学等についても、このような海外におけるリクルーティングに対する積極性が求められる。
この「積極性」とやらについては、さすがに中教審でも問題にされたが(留学生特別委員会第7回)、ほとんど全く文科省の書き方に変化はない。
いずれにせよ、なんと、日本の「一流大学」に「留学フェア」などでの「面接等」で合格が決まってしまうというのである。現在の大学の「序列」を考えると途方もない考え方だ。
中国にも一流大学はあるし、世界で東大が「最高の」超一流大学である、というわけでもない。それに、中国国内でどんどん大学が整備されてきている。そのことをあわせて考えると、今後は相当、入学生のレベルが低下してゆくことが避けられそうにない。
しかし、現在のように受け入れた学生は大方卒業させ、学位を授けるとしよう。そうであれば、既存タイプの学生が不満、あるいは被差別感を抱くことは十分予想されるところだ。我々はあんなに苦労して東大に入学したのに、彼らはそうではない、しかし、同じ扱いで同じ「東大卒」だ、と。
もちろん、日本の大学がもっと一定のレベルに達しない学生をガシガシ落としてゆくなどを通じて「質保障」をしっかりするなどのスタイルにし、一方では、例えば東大が日本国内の学生も、留学生と同じレベルのところまでたくさんとる、といった「イクォール・フィッティング」をするなら話は別だ(そして、それは、ひとつの考え方だ)。
しかし、それは既存の大学の序列を破壊する行為にもなりうる。
今回採択された大学に、そこまでの覚悟があるだろうか。
とりわけ問題なのが、英語コースだ。英語コースが、留学生だけに限られているのではなく、日本出身の学生にも開放されている場合、どういったことになるだろうか(Q&A追補版では、開放は可能になっている)。社会実験としては興味のあるものだが・・・
混乱3;入管
留学生30万人計画を達成するために必要な18万人という人たちを、全く中国からの「供給」に頼らずに「調達」できると考えている人はよほどの楽天家だろう。
しかし、この中国からの留学生というのは、彼らが望めば日本に来ることができる、というようにはなっていない。なぜなら、入国審査の強弱で、彼らは入国を認められたり、拒否されたりするからだ。過去に、「留学生による犯罪」が問題になった時期があり、その後、審査が厳しくなった時期もあった。
ということは、今後、日本への留学生を増やそうとしても、入管がネックになることは十分考えられ、従って、中教審であるだとか、日本経団連がこれを問題にしたわけである。
留学生の「質」というのは、限界的にどんどん低下することは明らかなので、例えば、中国からの留学生を今の2倍に増やそうとしたときに、審査される学生が2倍で済むということにはまずならない。もっとたくさんの審査が必要だ。
どのぐらい、文科省とか大学はこのあたりの事情を真剣に考えているだろうか。
混乱4;出口
90年代に、文科省が大学院の強化、を打ち出したときにも、さしたる出口戦略が見られたとはいえなかかったし、今もそうだ。修士課程で就職できた人はまだよかったが、博士課程を出てもなかなか就職できない人たちを大量に「生んで」しまった。その責任は、文科省(当時の文部省)と、観念論を振りかざすその一部の仲間たちにある。
文科系についていえば、修士や博士を出た人なら、かなり専門的な知識を持っているので、企業も喜んで高待遇で採用するはずだった。はじめから、ほとんどの人には、そんなうまい話があるとは思えなかったろうが、それを国策として推進したのが文科省である。そのため、今では、(言葉は悪いが)三流大学にすら博士課程まである始末だ。「一流大学」ですら就職に四苦八苦しているのに、どうするつもりなのか。
前にも書いたが、今回の議論では(外国人を国内に呼び込もうとする一方で)院生に国外への留学さえ要求している。では、いったい、国内の大学院というのはなんなのか。
人の運命をもてあそぶのもいい加減にしてほしい。
それと同じことが、今回の「30万人計画」で再現されないという保障がどこにあるのか。今回は留学生の就職問題だ(それに自身についても、もっと検討されるべき話だろう)。相変わらず、財界頼みで、「お願い」を繰り返している印象は否めない。しかし、「前回の」(しかし清算されていない)失敗である大学院強化策すら、結局大量の「職業ミスマッチ」を残したままではないか。
一方、留学生が引っ張りだこになる、という事態もまた、やや慎重に考えておかねばならないだろう。
責任をとれないのなら、はじめから、このような計画経済的政策はやらないべきなのだ。
混乱5;大学再編
前にも書いたが、現在の大学がそのままであってよい、とは私は考えていない。しかし、「留学生30万人計画」をテコとするこの大騒ぎには、どことなくうさんくささがただよう(シリーズ4回目教職員、大学院生への影響編参照)。
前にも書いたが、これによって、新規教員採用を延期して収支を改善しようだとかいったことのほかに、次のようなことがある。
大学の総在籍者の増加。18歳人口が低下しようという現在、信じられないかもしれないが、そう動いている大学は存在する。現在の定員をそのままに、留学生を増やそうというのである。ここには、留学生30万人計画が、18歳人口低下に対応して出てきたアイディアだということはすっかり忘れられている。もし、覚えていれば、従来型定員を減少させるべきだ。
そうでないから、新しい土地を取得して、新しい建物(留学生宿舎含む)をつくるといった、バブル期さながらの右肩上がり妄想が見られる。これは、私の妄想ではなく、現実にある話だ。
人文社会系のパージ。財界が要求している人材は理工系である。従って、人文社会系の人材はむしろ無駄である。私も、経済系の学生定員は多すぎると思う。しかし、だからといって、人文社会系が不要ということにはならないとも考えている。まあ、これもここで語るべきことではない。
しかし、大学という場所を、文科省であるだとか、大学経営陣とかは、自分たちの好きにできる「教育の場」として捉えすぎだ。そうした側面があるにせよ、カネを払っているのは学生の方なのだ。彼らに「学習の場」を提供するのが本来のあり方のはずだ。
従って、どのようなジャンルを学習したいのか、は究極的には学生に任されるべきである。
各大学ができるのは、そのような意思を汲み取った大学再編をすることでしかなく、文科省が理工系を強化せよ、と間接的に誘導するからそうする、というのは邪な発想である。
以上のようなことは、文科省や中教審の委員会、大学経営陣にははじめから十分予想されていたはずだ。
しかし、崖に向かって突っ走り、そのままジャンプしてしまった―谷に向かって。
もうひとつの「混乱」については、次に書こう。
つづく。
前の記事;「思惑編」
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